一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/6/6(月)から今日まで。(第34週ー後半①)




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2022/6/10(金)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。


「昨日は昼まで寝て、保健所検診行って、食べに行きました。今日はたぶん中華居酒屋。」



夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(笑、同上で)。


「おかあさん コン🦊ばんは(笑) 


今夜も、ぼんやりとですが、おぼろ月が見えていますね⛅🌔✨


では、早速「根っこばなし」より、『月夜の嫁ご👰🎑』第八話をお送りします👰👶👵


昔、岐阜の加納という宿場へ、ムラのおっちゃん、お兄ちゃんたちが、そこで奴隷労働させられていたムラ娘を救いに乗り込んできて、そこのあるじと売買人(百姓)を、あっちゅうまに承服させた👴👨という話からの続きでしたね。


なお、『月夜の嫁ご👰🎑』は、タイトルに魅かれて選ばせて貰った作品なので、物語が予期せぬ展開(?)になるかもしれないことを、あらかじめお詫び申し上げます(笑)🙇



「根っこばなし」より『月夜の嫁ご👰🎑』


👵👶👰

それから あわてて 嫁入り支度でな。


風呂敷づつみ 一つの 花嫁と👰💗
道具箱を 負いねた 花むこと、🤵💗
(※あるじから)祝い酒を もらった 世話役が 
つきそい役に 早がわりして、
羽織はかまの 仲人(※百姓)が 
提灯一つ ぶらさげると🎑
四人そろって 宿場を でたと。👴👰🤵👨


おのれが 売りとばした 娘の嫁入りに 
仲人役を 押しつけられた 百姓は
何かと言えば ぐずついてな、
やれ、嫁入り道中に 四人づれでは 縁起が 悪いと こぼしたらば、


つきそい役の 世話役が
「なんの、仲人さまよ、地べたを 見さっせ、影を 合わせりゃ 八人じゃ」
と、酒樽かかえて 言ったとよ。👴👰🤵👨👴👰🤵👨


(つづく)



では、明日も、素敵な物語と、私の駄文をお楽しみに😉✨💗


おかあさんも、以前、トウサンの受験番号が「四」であったりだとか、あと何だったっけかな?とにかくいろんな節目節目で、「四」は関係してきたことが多かったけども、一度も縁起の悪いことは起きてなかった、と言われてましたよね🌙🌓🌖🌕
むしろ、良いこと尽くしでしたよね🤗💗またいろいろお聞かせください🙇
おやすみなさい💤😪💗⛪️💗👰🤵💗🚌✨


追伸)今日のお花です😄」




それが済むと、2022/2/19(土)開催の講演会のアーカイブ配信の視聴をしました。


テーマは



大阪府/令和3年度ハンセン病問題講演会(2022年2月19日)
「ハンセン病問題から私たちが学ぶこと あるハンセン病回復者の生き方をとおして」
共催:大阪府・大阪市・堺市



※資料84に、パネルディスカッションの部分起こしがあります。


大阪の人間が言うのはあんましアレやねんけども、今回の府の企画で「醜い」という言葉を巡って当時者さんが言葉に詰まらはって、そのあとのディスカッションでみなさんが「その言葉」とじっくり向き合わはったってことがあって、それにウチは滅茶苦茶感動して、ウチは個人的にちょっと幼少時から「あざ(痣)」という言葉と向き合ってきて、みなさんの中にも「その言葉」とはちゃうけど別の言葉で「向き合った言葉はあるよ」とか「今も向き合ってるよ」とかいう方がいはるんとちゃうかなと、ウチはちょっと思えてきて…。



😸👩🏻‍🦰😺


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資料のイメージ
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※ウェビナー(Webinar)とは、ご存知のようにコロナ禍、私たちの日常に、新たに加わった "ウェブ(Web)" 開催の "セミナー(Seminar)" のことです。
※画像が大きくて申し訳ありません🙇‍♀️


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※資料84


令和4年(2022)年2月19日(土曜日)
大阪府令和3年度ハンセン病問題講演会
テーマ「ハンセン病問題から私たちが学ぶこと あるハンセン病回復者の生き方をとおして」
主催:ハンセン病問題講演会実行委員会    
共催:大阪府・大阪市・堺市

第1部 ドキュメンタリー映画「地域で生きる」(製作協力:「もういいかい」映画製作委員会)
第2部 シンポジウム
○シンポジスト:P・T氏(ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会会員)
青木美憲氏(国立療養所邑久光明園園長)
神田信治氏(芦屋市社会福祉協議会介護支援専門員)
近藤英子氏(「障害者が街で共に生きるみんなの麦の家」事務局)
外川浩子氏(「見た目問題」解決NPO法人マイフェイス・マイスタイル代表) 
○コーディネーター:大槻倫子氏(ハンセン病国賠訴訟弁護団弁護士)



※パネルディスカッションの部分起こし


コーディネーター:大槻倫子・ハンセン病国賠訴訟弁護団弁護士
本日のパネルディスカッションでは まず 社会で暮らす 回復者の皆さんが 地域で生きていくための 医療や介護の問題について 考えていきます また 偏見 差別の問題については 見た目の差別を 中心に 取り上げるとともに 人とつながって生きるということの意味を 考えていきたいというふうに 思っています


それでは シンポジストの ご紹介をさせていただきます 私の 右側に 実は 坐っておられます ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会の会員であられますP・Tさん です 本日 匿名で お声だけで お話しいただくということに なっております (中略)



P・Tさん(ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会会員)
京都のね 円町かな 1946年の 生まれで 7人兄弟の 一番下ですわ 生まれて それから 僕ねぇ 療養所来るまでの間ねぇ ほとんどねぇ 覚えてないですよ もう 小さかったからねぇ ただねぇ いつもそばに 人がいてなかったような そんな気がするわ 


ていうのは 私 療養所へ 行くまでに 今でいう 養護施設かな そこに 居たもんやからね そこでも 友だちが いてなかったね 何人かは 入っていったけど 別にだから 寂しいとか そういうのはぜんぜん もう ないんやね 


母親が 先に 療養所に 入ってたから 養護施設も それを 知ってたんやなぁ だから ハンセン病を かなり 警戒していたんやと 思うわ 


それで そのうちに 身体が なんか 鼻血が 出るもんやから 病院へ 連れていかれて それで 診察して そこで ハンセン病や ということになったんやなあ ほんで 療養所に 連れていかれた


だから 社会のことも分らず 世間のことも分からず ただ どんぶらどんぶら 流されていって ただ そこに居てた って感じやね


母親は 光明園に 入ってました 親父は 僕と 入れ違いで 亡くなったって 言ってたねぇ きょうだいのことは 僕は あんまり 覚えてないんやけどね まぁ いちばん上の 姉はね ハンセン病の問題が 影響したのか 精神障害を 患って 京都の 精神科病院に 入ったんですわ それでもう 亡くなりましたけどね 下の姉は もう ハンセン病のことを 隠して 結婚して 姉はもう 親戚に 貰われて行ったからね そこで 結婚して これはもう ハンセン病を 絶対に 隠すつもりやからね 姉の子どもが 一人いてるんやけど 甥っ子には 絶対に言うなと 勿論 口止めされました


ほいで 裁判あったでしょ あのときに 補償問題が 起きましたやんか 家族のね そして それを 姉に話したら 最初は 「やる」って言って 乗って来たんやけどね しばらくしたらね 「それぐらいの 額やったら 裁判 もう辞める」 って言い出して それで 弁護士に あらためて 断ってね とにかく ハンセン病を 隠すことは 絶対条件やったねぇ 姉は


上の兄貴ふたりは 一人は 北朝鮮で 一人は 南朝鮮 韓国の方へ それは お袋が そう 仕向けたのか 本人が そう希望したのか それはわからんけどね それで 下の兄貴ふたりは 日本で 行方不明で 分らんですわ そういう状態やねぇ 


僕自身は これもよう 分らんのやけどね 多分 光明園(国立ハンセン病療養所「邑久光明園(おくこうみょうえん)、岡山県瀬戸内市)に 入ったときは 小学校から 行ってるから (ハンセン病と診断されたのは) 6歳か 7歳か それぐらいちゃうかなぁと 思ってるわ (1953年頃) 


光明園に 入ってからはね 友達は 同類やからね 出来ましたよ 母親とは 決まりがあってね 少年時代に 入っている間は 週に一回だけ 母親の住んでるところに 面会に行けるんやけどね そういう 規則が あったなぁ 


いやぁ 家族っていう 実感がね 子どもの時から ないからね 別に あんま 嬉しいとは 感じなかったなぁ 「まぁ 日曜日 一回 暇やから 行こー」って感じで


高校は 僕は 野球部に おったからね ソフトボールとか 魚釣りとか そういうのは 好きやったねぇ 悪いけど 勉強は 全然 嫌いですわ(笑) しなかった 


てゆうのは 他の人はね 外で ある程度 生活してるから 社会経験が あるでしょ だから 将来に対しての 目標とか そういうことを 考えてたね ところが 僕は 社会性とか 全然 頭になかったからね 社会のことは わからずに ただ 食うて寝て生きてる って そんな感じやなぁ


絵も 退屈しのぎで ちょっと やってみた だけやけどなぁ とにかくね 見かけは 後遺症もないし 足にちょっと 痺れてる とこがあるだけで どっちかゆうたら 健康な 方やね だからもう 退屈なんですよ 療養所の中 なんにも やることがなくて だから 魚釣りとか ああゆうのは よう やったなぁ


高校卒業後は いろんなこと したなぁ 最初に なんかしらんけど あれよあれよという間に 大阪行って 工員として 働いて 毎日毎日 おんなじことを しとる訳や 一年ぐらいで やめてしもうて それから.草津の 療養所から 飯場(はんば)に行って 土方したり 東京で 自動車の 工員したり 段ボールの カットする仕事をしたり それから 大阪に来て 機械でね 毛糸の編み物やったり 米屋の丁稚をやったり  


最後に 運送屋に行って 8年ぐらい おったかな そこで 思ったんはね 俺 一生 何もせんと 終るのかなぁと それが嫌になって 絵を 習い始めた


最初に 社会復帰したのは 23か 4 くらいの時 やったと思うなぁ その時に 診察してもらって 正式に 出たような 絵の勉強を 始めたのは 30近かったんちゃうかなぁ 


それでね もう 時効やろうけど 美術館のね 宿直の アルバイトを しとった で これ 言うべきか 言わざるべきか 宿直の責任者にね 「私 元ハンセン病やった」って 言うた そしたら 向こうがね 釘 刺してきたんですわ 「医者に 安全かどうか 診断書を 書いてもらってくれ」言うて そいで 光明園行って 書いてもろうて OKが出て 宿直も OKが出て 
しかし よくよく 考えてみたら こっちから進んで 言うべきではないなあと そう思うように なったんですわ だから それはもう 今でもねぇ 韓国人 いうのと ハンセン病 いうのは 背中に 張りついとるんですわ これはもう 死ぬまで 張り付いておるやろなあと 自分としては 思ってますわ
1:08~
いちばん 腹立ったんはねぇ 顔は 「醜い」 って 医者が 言うのはね あれは よう ほんまに (絶句される) わたし 人を 救う 医者が そういうことを 言って いいのかっていう (二度 絶句される) 俺は そう思う あんな 失礼なことは ないと思うなぁ





外川浩子・「見た目問題」解決NPO法人マイフェイス・マイスタイル代表 
私が ハンセン病問題と 関わっていこうと 決めたのは 熊本での 家族訴訟の 判決を 読んだのが きっかけでした 中でも パッと 目についたのが 「外貌の 醜状や 大きな変化による 差別があった あるいは 後遺症による 外見の 醜状を理由として 差別意識を 抱く者が 一定数 いた」 というようなことが ポンポンポンと 判決文の中に 書かれているのを 目にしました 


拍子抜けした っていうのが 私の 正直な いちばん最初の 印象でした というのは 私たちが 「見た目問題」で活動を始めた 20~15年前くらいは なかなか みなさん それを 差別として 受け止めてくれない というのがありました 凄く 悔しい思いをしたのを 今でもはっきり 覚えています 


この判決文を 読んだときには 判決文が 簡単に あっさりと 「見た目に対する差別 あります」っていうふうに 認めているので 拍子抜けした っていうのが 正直なところでした 


ただその後 弁護団の皆さんとか ハンセン病元患者を支援されている方 研究者の方と いろいろ 意見交換したり 教えて頂いたりして この判決文の 問題点が 私なりに 分ってきました  


例えば 先ほど  P・Tさん(ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会会員)のお話のなかにも ありましたけれども この 「醜状」という 「醜い」っていう言葉を 簡単に 判決文の中に 使っている 特にそこに 問題意識を 持っていない ということが 感じられる これはやはり 凄く大きな問題だと 思います この言葉を 簡単に 使っていいとは やはり 思いません


これに関しても 思い返すと 同じ様な 体験がありまして 「実は 見た目に 症状が ある人たちを 被写体として 写真を撮りたい」と ある かなり著名な カメラマンから 声を 駆けて貰ったことが あるんです その時に 「なぜ この 見た目に 症状が ある人たちを 撮りたいと 思われるんですか?」って 聞いたら 「これまでは 綺麗な人たちを 撮って来たから 醜い人を 撮ってみたいと 思ったんだよね」と 簡単に そういうことを 言われたことがあります いやあ こういう考えの人とは 無理だなあと 思ったので そのお話は 引き受けるのはやめて お断りをしました 


なので 言葉の使い方 ひとつをとっても この判決文は 凄く問題があるなと 今は感じています 


そして もう一点  確かに 見た目に対する 差別はあるって 認めてはいますけど 差別があるから それを 解決していかなければいけない というような 意味合いのことは 全く 書かれてなくて どちらかというと それはもともとあった差別だから 仕方がないんじゃないか というような趣旨で 書かれている という点も 非常に問題があると 今は 考えています


なので これから ここを切り口として 何かしら 見た目ってことで もう一回 ハンセン病の問題を 掘り起こしていきたいと 今は思っています




P・Tさん
あの裁判が 言うてるのはね 結論から言うとね 「右利きって いうのはね 人の 元来 持ちあわせているもんや」と たったそれだけですわ 言うてるのは 


だけど 私から言えば 右利きって いうのは もっと 説明が いると 思うねんね 第一 右利きって 言うのは 変化する 時と 事情と その時の気持とか 考え方で 必ず 変化するときがある 


その証拠に 見慣れる っていうこともあるし 私 あの 口障介助 やったことがあって その人は 食べるときに 口に 入れたら 半分ぐらい 出すんやね 最初見たときは ワーッと 思ったけど ところが 美意識って それぐらい 変化するものやねぇ 


それを 簡単にね 「右利きが存在するから」言うてるけど もっと 説明しても よかろうもんじゃないかなと 思う 


たいがい 悪い言い方したら 「右利き そのものが あんな 曖昧なものは ないで」と 


ハンセン病が 問題になるのは 治ってるかどうかが 問題で 「醜い」「醜い」っていうのは 問題ではないと 思う 僕は そう 思ってるで 


まぁ いろんな 仕事があるけど まあ 暇ほど 大変なものはないと 思うわ そりゃそうやろな 一日中 じいっと してるんやもんなぁ 動かれへんしなぁ 動ける人は いいけど 
中にはね 両脚義足やのにね 小さな舟持ってる人が 俺に 「魚釣り 行こか 行こか」言うて 俺も そのころは なにも ものごとを 考えてないから 後で考えてみたら 転覆したら 誰が 助けるんやと そんなんやったわ


まぁ とにかく 今でも いちばん大事なのは 美意識が 問題なんやということ 俺に言わしたら ほんまに みんな 裁判所は 美意識って どういうことのか 知ってんのかなぁー? 俺は そう思う




外川浩子さん
講演とかで よく質問されるのが 若いパパ・ママさんたちから 自分の 幼い子どもが 道ですれ違った時に 「あー 変な顔」って 思わず 言っちゃったら どうしたらいいんですか? ってことで そう聞かれることが 凄く 多いんです 


それで 実際に 当時者さんと一緒に 「なんて その時には 答えたら いいんだろう?」と いうことを みんなで 話し合ったんです その時に みんなが これがいいと 思ったのが ぜひ パパ・ママさんたちは お子さんが そういうことを 言った時に


 「そうだねえ 確かに いろんな人が いるねえ」って 笑顔で 言ってほしい そして一言 背中を押すように 「仲良くしようね」って 言ってほしいなっていうのが 私たちの 意見でした 


優しくしようね だと なんとなくちょっと 上から目線な感じがするんですけど 小さいお子さんだと 仲良くするっていうのは 実感として なんとなくわかるので 「仲良くしようねえ~」って 笑顔で 言ってくれるのが 嬉しい というのが わたしたちが 考え付いた 答えだったりします



P・Tさん
やはり 病気 そのものがね やっぱり ハンセン病を 患ったってことは 基本的に それはもう しゃべらないと 医者も 判断しづらいんじゃないかと 私は そう 思ってる だから 私自身 地域の かかりつけ医には 言ってるけどね 


言いづらいからね 紙にね 「ハンセン病や」って 書いたらな かかりつけ医の先生は 「そんなん かまへんわ 触っても 移らん病気や」言うて それでまあ 一安心して


あとはね 白内障で 手術しようと 思うてね そこで 問診表 っていうのが あんねんなぁ これは やっぱり 言うとかなあかんなぁ 思うて その時 主治医が おらんかって 看護師に「ハンセン病って 知ってる?」って 言うたら 看護師が「知ってる」って 


「俺 それやったんや それ 先生に 了解しておいてほしいんやけど」 って言うて 看護師が 主治医に 言いに行って 先生が おらんかって そいで 看護師が 「私の判断で 結構です 大丈夫です」っていうふうに 言われて  そんで 一安心したけどもね


まぁ 時代がもう 時代やしね 開けてきているから そのせいもあるんかなぁと 思いよった


だから 今は 昔と比べたら やっぱり 違うと思うな 昔はもうねぇ 酷かったもんな


いまはもう だいぶましやと 思う 最近 あんまし行ったことないから 知らんけど
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