一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

*水平社宣言とは(※雑(実?)学No.178,第51週,2022/10/10(月)~,B.D.+35)

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2022年10月10日(月)
🌕🌖🌗🌘✨
※きょうは、ノーペン🖊デーにつき、通常のメール・チェックと、レター書きと、『根っこばなし』と、お食事の写メ特集は、お休みです🙇(笑)。


きょうは、ウッジューの2度目の月命日(61日目)☆彡
リョーリョーの8歳のB.D.からは28日目☆彡
きょうは雨傘ランに行って、27,080歩(19.8㎞)走り歩きしました🏃🌂
早く、お留守番のご褒美の〇ゅ~るをくださいニャア!!😺🌹

With "Ryoryo"(ウイズリョーリョー)

そのあとは、 『水平社創立100 周年記念特別展「人の世に熱あれ 人間に光あれ~奈良で産声をあげ, 京都で決起した全国水平社~」と講演「全国水平社の創設者たち」』の文字起こしをしました↓↓

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開催日:2022年10月5日(水)、主催:人権ライブラリー(芝大門人権講座)、水平社創立100 周年記念特別展「人の世に熱あれ 人間に光あれ~奈良で産声をあげ, 京都で決起した全国水平社~」と講演:「全国水平社の創設者たち」講師:山内政夫・柳原銀行記念資料館運営委員会事務局長、NPO法人崇仁まちづくりの会
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(1)「水平社創立100周年記念特別展」の展示の案内の部分起こしです。
期間:2022年3月2日(水)~3月31日(木)
サブタイトル:人の世に熱あれ 人間に光あれ~奈良で産声をあげ, 京都で決起した全国水平社~」
共催:京都市:ツラッティ千本・柳原銀行記念資料館) 


🌛①開催趣旨:
2022(令和4年)年3月3日に迎える「全国水平社創立100周年」を記念し,京都市人権資料展示施設「ツラッティ千本」と「柳原銀行記念資料館」の2館において,共同特別展を開催いたします。


「人の世に熱あれ,人間に光あれ」と掲げた当時の活動家たちの,反差別・人権確立に向けた 100 年という長きにわたる闘いを検証していくとともに,特に全国水平社の創立時にフォーカスした,これまでにない企画展示です。


「奈良で産声をあげ,京都で決起した全国水平社」とのサブタイトルの通り,全国水平社と言えば「創立準備は奈良の活動家たちで,創立大会以降は京都の活動家たち」というのが通説となっていますが,今回の共同特別展では京都における全国水平社創立準備・創立・創立後をそれぞれの拠点となった千本・崇仁・田中や,中心となった活動家である南梅吉・桜田規矩三(さくらだきくぞう)・寺田清四郎を通して丁寧に検証し,京都における全国水平社創立の意義を考えようというものです。


全国水平社創立の間近,1922(大正 11)年2月 28 日に京都駅前の宮本旅館に中心メンバーが集い,大会の提案事項 ( 宣言,綱領,則,決議,運動方針 ) の最終確認を行いました。集まったメンバーは奈良から阪本清一郎,西光万吉,駒井喜作,米田富,京都から南梅吉,桜田規矩三,近藤光,関東から平野小剣でした。この後,京都の寺田清四郎も加わることになりますが,創立大会を3日後に控え,準備に奔走する創立メンバーの様子をうかがい知ることができます。


ここに登場する南梅吉・桜田規矩三・寺田清四郎らは,創立に多大なる尽力をしたのにも関わらず,これまであまり評価をされてきませんでした。しかし近年,ツラッティ千本や柳原銀行記念資料館の研究により,この3名の功績が明らかになってきました。


南梅吉は,全国水平社創立大会において初代中央執行委員長に選出され,全国各地で演説活動を行ったり,自宅に連盟本部事務所を置き,運動費の多くを負担したり,中央執行委員長としての務めを果たしました。全国水平社を離れた後には「日本水平社」を立ち上げたことから,立場を異にしますが,部落解放に向けて熱く活動した人物でした。


桜田規矩三(さくらだきくぞう)は,自ら記した文章がなく,いまだにその人物像は明確ではありませんが,近年「自主的改善運動の草分け」とされる桜田儀兵衛の孫であることや,全国水平社創立まで自宅を仮本部として提供したことが明らかになっています。創立大会では,綱領を朗読し,差別糾弾闘争にも強く関わっていきました。


寺田清四郎は,田中における部落改善運動の中心人物として知られる一方,京都府水平社初代執行委員長として,活動を広げていきました。委員長就任後も部落改善運動と水平運動を両立させながら運動を進めていった人物でした。


このように京都の南梅吉や桜田規矩三、寺田清四郎の存在が,全国水平社の創立に大きな役割を果たしました。近年のツラッティ千本・柳原銀行記念資料館の新たな研究成果をもとにした今回の共同特別展を通じて,全国水平社・京都府水平社創立に向けた南梅吉・桜田規矩三・寺田清四郎の3名が果たした役割,思想などを新たな視点で検証し,「京都において創立した全国水平社」を見つめ,人権の大切さを皆さんと共に考える機会とします。
                               
🌛②全国水平社創立までの動きと創立大会
1871(明治4)年の「解放令」布告以降,被差別部落に対する差別意識はなくなることなく社会に根付き,近代化が進む中で,部落の貧困化も大きな問題となっていた。明治中期になると,各地の部落では,部落差別の解消や貧困を改善するため「部落改善運動」が見られるようになった。しかし,明治末期から大正期にかけて,部落の青年を中心に,従来のような行政と結びつく改善運動ではなく,部落の自主的な集団の力によって差別を撤廃しようとする動きが起こる。その中でも特に奈良県での動きが大きい。


奈良県柏原の青年であった西光万吉や阪本清一郎,駒井喜作らは,1921(大正 10)年に「水平社準備事務所」を立ち上げ,部落差別撤廃のための新たな運動として,「全国水平社」の創立を計画した。準備を進める中で,阪本清一郎が京都の南梅吉と出会い,南を通じて桜田規矩三も準備に参画したことで,全国水平社創立の動きが具体化され,京都で創立大会が開かれることとなった。


創立大会までの間,七条高瀬川下ルの桜田規矩三の自宅に「仮本部」が置かれ,創立の 5 日前の 1922( 大正 11) 年 2 月28 日の夕方には,京都駅前「旧宮本旅館」に全国水平社創立者 8 人(奈良柏原の阪本清一郎,西光万吉,米田富,駒井喜作,京都千本の南梅吉,東七条の桜田規矩三,埼玉の近藤光,関東の平野小剣)が集結した。


関東水平社聯盟の機関誌『自由』第2巻第1号(1925 年1月)に,「宮本旅館 2 階の 8 畳間に 8 人が燃えるような熱をもって,解放の烽火の準備に忙殺されていた。南と阪本は机にもたれて大会の作戦と幕開けに頭をひねり,駒井は内外の交渉に没頭していた。米田は新聞記者に対応し,桜田は来訪する同人と懇談し,菜葉服の西光と平野はペンを走らせ,近藤はロシア帰りの話を語っていた。」と,当時の様子が詳細に記されている。


綱領,宣言,則,決議,その後の運動方針,夜の部で誰が発言するのか等々,これまで桜田宅の仮本部で重ねてきた大会開催の最後の確認がされ,創立大会後の本部事務所を南の自宅におくことなどが決まった。南梅吉と思われる人物が「思い出,創立のころ〜涙と涙の連鎖結合は〜尊いものであったが」と語っている。廃業し,建物がなくなる10 年前まで「旧宮本旅館」は当時の模様を伝えていた。


そして 1922(大正 11)年 3 月 3 日岡崎公会堂にて「全国水平社創立大会」が開かれ,全国水平社が誕生したのである。日本初の人権宣言として「全国水平社創立宣言」が採択され,宣言は多くの大衆に感動を与えるとともに,社会にも大きなインパクトを与えた。全国水平社は,奈良で準備され,京都で創立したのである。

 

※写真は(左)旧宮本旅館、(右)桜田規矩三自宅跡仮本部辺り写真(七条高瀬川下ル)


🌛③旧岡崎公会堂
1915(大正4)年 11 月の大正天皇即位の大礼の宴会場として二条離宮に建設された建物を,1917(大正6)年,岡崎公園内に公会堂として移築したもの。


天井の格間(ごうま)にはステンドグラスが張られ,下桟敷 2000 人,2階桟敷に約 1000 人が収容される,当時の公会堂としては非常に大規模なものであった。


全国水平社創立大会が開かれたほか,第3回大会までは,この岡崎公会堂で開催された。

※写真は(左)旧岡崎公会堂本館【1931(昭和6)年】 、(右)旧岡崎公会堂本館・演壇【1931(昭和6)年】


※写真は全国水平社第3回大会写真【会場・旧岡崎公会堂本館 1924(大正 13)年3月】のものであるが,創立大会時の雰囲気が感じ取れる。


🌛④奈良から京都に至る道 ~初期水平社を支えた京都の面々~
吉【1877(明治 10) 年~ 1947(昭和 22)年】
 南梅吉は滋賀県桐原村(近江八幡市)で生まれ,小学校卒業後,
京都の靴屋で丁稚奉公を始め,17 歳の時に千本に移り住む。化粧
品販売などの仕事を始めるとともに,青年団などの地元団体でも
積極的に活動し,1919(大正8)年の第一回同情融和大会では各
界の名士と共に名を連ね,全国的にも知られる存在になっていっ
た。
 1921(大正 10)年 10 月,
大和同志会(奈良県)の松井庄五郎
を通じて全国水平社創立者の面々と出会い,水平社創立への協力
を熱心に説かれ,参画することになった。翌 1922(大正 11)年
3月3日,京都市岡崎公会堂で開かれた全国水平社創立大会では
議長を務め,その夜の会議では,創立者の中で最年長であったこ
とや創立資金への多大な尽力もあったことから,中央執行委員長
に選出される。同時に,全国水平社の連盟本部事務所も千本の南
宅におかれ,当面の活動資金も南の支援によるものが大きかった。
 南は日本各地で演説を行い,自らの 10 数年に及ぶ改善運動が間
違いだったと述べ,自主的解放運動への参加を呼びかけた。しかし,
1924(大正 13)年に発覚した遠島スパイ事件をきっかけに,左
派からの批判もあり,翌年,中央執行委員長を辞任。
その後,1927(昭和 2)年に,新たに「日本水平社」を創立
するなど活動的であったものの,大衆的な運動に発展することは

なかった。
 戦後は,「人種解放同盟」を結成し,機関紙も発行するなど活動

していたが,1947(昭和 22)年に,その生涯を閉じた。


桜田規矩三【1896(明治 29)年〜 1963(昭和 38)年】
 桜田規矩三は 1896( 明治 29) 年柳原町上之町で父重三郎,母ト
クの次男として誕生。トクは初代柳原町長の桜田儀兵衞の長女で
あった。
 1921( 大正 10) 年奈良県安堵村の小林きみと結婚し,長女多嘉子,
長男勉をもうける。
 全国水平社創立者の一人として有名である。全国水平社創立大
会では綱領を朗読し,中央委員に就任,河原町七条西入るの材木
町の自宅を全国水平社仮本部として提供
した。伏見警察署警部補
の差別発言や郵便局の身元調査等と向かい合い,果敢に闘った。
また,京都府水平社創立を提案し,東七条水平社創立を主催した。
桜田が中央や京都の東七条で水平運動に参加し活躍したのは,全
国水平社創立からその第 3 回大会までである
。南梅吉(初代全水
委員長)と桜田とは京都市内の青年団活動を通しての仲間であり,
南の自宅(現在の北区紫野 , 後の全国水平社本部事務所)で , 桜田
奈良柏原の阪本清一郎を紹介され,水平社運動に共鳴したとさ
れている。
 1921(大正 10)年には崇仁北部青年団長に就任し,地域のリー
ダー層として,全国水平社創立に関わっていった。
創立大会では綱領を朗読し,差別糾弾闘争にも強く関わったが,
1963(昭和 38)年の大晦日に京都五条東山上るの木賃宿で孤独
死している。 


寺田清四郎【1880(明治 13)年~ 1943(昭和 18)年】
 奈良県添上郡 杏村(からももむら) で生まれ,幼少期から 26 歳
までは京都府柳原町で暮らし,1906(明治 39)年に田中へ移る。
田中では,1908(明治 41)年に部落改善団体「自彊(じきょう)会」
の創立に参画し,それ以降,地区の中核的な組織に関わっていく。
1919(大正8)年12 月に「田中大正会」が組織されると,副会長
に就任し,田中における指導者となった。
 1922(大正 11)年には水平運動にも参画している。親交のあっ
た南梅吉から全国水平社創立への参加を呼びかけられたようだが,
寺田が全国水平社創立大会やその準備段階に関わった形跡は確認
できない。水平運動とは性格の異なる大正会の指導者としての立
場を考慮し,当初は水平運動と距離を置いていたのではないかと
思われる。
 寺田は同年4月2日の田中水平社・京都府水平社の創立大会か
ら水平運動に参画
し,府水平社初代執行委員長に就任。その後,
京都府下の差別事件に対する糾弾を行ったり,府下各部落へ演説
に行くなど,府委員長として,初期の水平運動を支えた。
 1925(大正 14)年に南梅吉が中央委員長を辞任すると,寺田
も桜田規矩三も同時期に全国水平社から離れている。
その後,寺田は日本水平社の顧問にも就任しているが,主として
田中や養正学区での地域に根付いた活動に専念していった。
 寺田の運動で注目すべきは,水平運動に参画した後も,かねて
からの田中大正会の要職を続けながら,部落改善運動と水平運動
を同時並行で両立しているということである。


少年少女水平社 増田ヒサヱ【1914(大正 3)年~ 1992(平成 4)年】
 初期水平運動の中では「少年少女」の活動も大きい。全国水平社創立大会では,奈良県柏原の少年・山田孝野次郎(やまだこのじろう)が登壇し,学校での差別を訴え多くの共感を得た。翌年の全国水平社第2回大会で「全国少年少女水平社」が誕生し,そこで千本の増田ヒサエ(当時9歳)が少女水平社の代表として演説している。増田は千本水平社の創立者の一人・増田清次郎の娘で,南梅吉の姪にあたる。南らにともなわれ,各地の水平社大会で演説を行ったという記録がある。南が委員長を退くと,増田も水平社からは離れていった。
 水平社での少年少女の活動では,少年の山田孝野次郎が有名であるが,少女の増田も同じように各地を飛び回って演説活動をしていたのである。少女の訴えは多くの共感を呼び,初期水平運動への貢献も大きい。子どもや女性の活動としても注目すべき人物である。

※写真は番町水平社(兵庫)の創立大会で演説するヒサヱ、『神戸新聞』1923 年 5 月 4 日『兵庫県水平運動史料集成』に掲載


🌛⑤全国水平社初代連盟本部事務所
 本部事務所は,初代中央執行委員長であった南梅吉の自宅「京都市上京区鷹野北町8」に置かれた。正覚寺(千本)西向かいの角にある「全国水平社創立を記念する碑」より30m南に初代連盟本部があった。


🌛⑥京都府水平社創立大会の地

 全国水平社創立の1ヶ月後,4月2日に,全国
水平社初の支部として京都府水平社・田中水平社
が創立された。創立大会はかつての「田中親友夜
学校」の校舎,当時の養正託児所
で行われた。こ
の地には現在,市営住宅が建設されているが,そ
の片隅に夜学校の石碑が建てられている。
 本年は京都府水平社も創立100 周年となる。


🌛⑦全国水平社創立宣言と関連資料
創立宣言とチラシをはじめ,合計7点の資料が世界記憶遺産
登録
に申請
された(2015年3月)。
※写真
・「全国水平社創立大会 綱領 宣言 則 決議」

 本資料は,両面に印刷されており,表には綱領と宣言が記され,発行者は「水平社」である。裏には則が「京都府京都市高瀬七条下ル・全国水平社京都本部(仮本部)」によって記され,決議は全国水平社大会の名によって記されており,いずれも 1922(大正 11)年3月3日に京都市公会堂(岡崎公会堂)の全国水平社創立大会において採択されている。


 創立大会では南梅吉による開会の辞,阪本清一郎の経過報告,桜田規矩三の綱領朗読に続き,駒井喜作が宣言を朗読し,提案した。綱領,宣言,則,決議も参加者全体で確認された。


 宣言は主として西光万吉によって起草され,過去の同情的な融和運動を拒否して部落民自らが誇りを持ち,自主的集団的解放運動に立ち上がることを述べたもので,被差別マイノリティによる世界初の「人権宣言」として高く評価されている。


チラシ「全国水平社創立大会へ!」

 本資料は全国水平社創立のために「水平社同人」の名前で呼びかけられた
ものである。チラシの右側に書かれた二つの短い文書は,水平社の思想を端
的に表しており,1922(大正 11)年 2 月 19 日に大阪市内で配布されている。
続いて同月 21 日に大日本平等会が大阪の中之島公会堂で開催した「大日本
同胞差別撤廃大会」の演説会においても
米田富と石田正次よって配布
れたほか,全国各地に発送された。同月 28 日には奈良市内と隣接の部落に
5 万枚配布され,創立大会前日の 3 月2日の午前には京都市内の各新聞社に
も手渡され
,その後,広く市民に配布された。


奈良県柏原水平社荊冠旗(けいかんき)

 水平運動の象徴である水平社旗。デザインは西光万吉
の考案により,赤い荊冠はキリストが十字架上でかぶせ
られた荊の冠で,受難と殉教の象徴
であり,黒い背景は
差別のある厳しい世の中
を意味する。その旗竿は先を鋭
く斜に切った青竹の竹槍とし,自らの力と行動で絶対の
解放を期す決意
を表した。この荊冠旗は,人間が神のご
とく尊敬される存在であることが強調され
,受難からの
救済を解くキリストの生き方と感情を作品に反映させる
革新的な表現主義の影響も受けている。全国の府県水平
社や地域水平社はそれぞれの荊冠旗を作成し,大会や示
威運動の際に掲げた。柏原水平社荊冠旗は全国水平社創
立を提唱した奈良県柏原水平社の荊冠旗
で,1923(大正
12)年2月に京都市の平岡国旗店(現平岡旗店)で製作
され,右下には「柏原水平社」と墨書されている。


🌛⑧全国水平社創立発起者集合写真

 全国水平社創立大会開催日に,創立大会が開催された京都市公会堂で撮影された。左から平野小剣,米田富,南梅吉,駒井喜作,阪本清一郎,西光万吉,桜田規矩三。創立大会では,南梅吉が開会の辞を述べ,阪本清一郎の経過報告の後,桜田規矩三が綱領,駒井喜作が全国水平社創立宣言,米田富が決議を朗読し,南梅吉が初代中央執行委員長に選出された。


🌛⑨全国水平社創立宣言を巡る関係図 


(2)山内政夫さんの講演「全国水平社の創設者たち」の部分起こしです。
山内政夫・柳原銀行記念資料館運営委員会事務局長、NPO法人崇仁まちづくりの会理事
私は72歳です 1950年生まれです 2003年から2006年まで 部落解放同盟京都市協議会の議長をしていました もう解放同盟から離れて10年以上になるんですけれども 今でも 崇仁(すうじん)地区の まちづくり推進委員会の事務局長をしています


一番最後に 私が 問題提起と言う形で「この建物(※柳原銀行)は 保存されるかも されないかも 分からないけれども それが保存されても まぁそれは それだけや 幸い 崇仁地区は 歴史的にも有名であり 有力な部落でもあったので 様々な資料が 残っている それで きちっと調べて 研究して 常時 発信するということが 大事になってくるんじゃないか」と 


そういうことで 平成9年から 約27年間 32回の特別展と 10数回の 企画展を 勿論 部落問題だけではなくね 様々な差別の問題も 同時に 常時 発信するということで やってきました 今回は特に 全国水平社100年記念 ということで 「人に熱あれ 人間に光あれ」というテーマで 奈良で産声を上げ京都で決起した全国水平社 というのを やることになって 3月の2日から 31日まで 特別展を開催しました それに基づきまして ま ちょっと 色々色々 講座を展開したいと 思ってますので すいませんけども 付録のチラシの表紙を 見て貰えませんか?


7人の写真の 向って右端 この方ですね この方 桜田規矩三(さくらだきくぞう) と言います この方 あとから 資料で 紹介しますけれども 全国水平社の 創設者たちは ほぼ 研究されつくした感があると 思っていますけれども ただ一つだけ 大きな謎が ありまして この 桜田規矩三さんのことだけが まだ 詳しく分かってない そういう状況だと 思います🌹


注目したいのは 「一時 桜田邸に 全国水平社の仮本部が置かれ 京都府会の 宣伝活動の中心になって活動した 大会では 綱領を朗読し 中央委員に選ばれ 温厚で誠実な性格は 地元の人たちから 信頼され 支持された」(『水平社運動の思い出 悔なき青春』部落問題新書 1(木村京太郎) / 刊行年:1968、出版社:部落問題研究所出版部)と これはまぁ 今日の報告の中で 一つの事実として 非常にまぁ重要なので 採用するということで いいんじゃないかと思います 

(3)崇仁のまち 新たな光あれ 水平社宣言から100年:朝日新聞(2022年3月3日)より抜粋です
同資料館(柳原銀行記念資料館)の事務局長、山内政夫さん(71)が、当時の住宅地図や創立メンバーの記した資料などを調べたところ、仮本部は初代委員長となる南梅吉と交流があった桜田規矩三の自宅だったとみられるという。近くの旅館では西光らが集まり、綱領などの最終確認がされていた。なぜ、京都に集まり、準備を進めたのか?🌹
山内さんは「奈良の小さな村から全国へ考え方を広げるためには、地域ネットワークのある京都に集ったのではないか」と考えている。



🌛⑩全国水平社関連京都マップ

「同じです あなたとわたしの 大切さ」令和 4 年 3 月発行
京都市文化市民局共生社会推進室、京都市印刷物 第 033238 号
※マップに沿っての山内政夫さんのご案内が視聴できます↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=L-oC1TvxOfU


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※今日の文字起こしのソースはこちらです

開催日:2022年10月5日(水)、主催:人権ライブラリー(芝大門人権講座)、令和3年度 京都市:ツラッティ千本・柳原銀行記念資料館 水平社創立100 周年記念特別展「人の世に熱あれ 人間に光あれ~奈良で産声をあげ, 京都で決起した全国水平社~」と講演:「全国水平社の創設者たち」、講師:山内政夫・柳原銀行記念資料館運営委員会事務局長、NPO法人崇仁まちづくりの会理事

※動画はありません
※関連リンクのご紹介です:
・部落解放運動の過去・現在・未来(4)山内政夫氏(柳原銀行記念資料館)に聞く:
http://www.arsvi.com/2000/0907yt.htm
・部落解放運動の過去・現在・未来(5)山内政夫氏(柳原銀行記念資料館)に聞く:http://www.arsvi.com/2000/1006yt.htm
・(灘本昌久)□テレビ番組の紹介□どうする京都21「どう再生!?京の玄関口・崇仁地区のまちづくり」(KBS京都、2003年11月23日放映):https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20031126.htm
・柳原銀行記念資料館のHP:http://suujin.org/yanagihara/index.html

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