一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/1/17(月曜日)から今日まで。(第14週ー前半②)



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2022年1月19日(水)
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※きょうは、ノー勉📖デーにつき、通常のウェビナーと、YouTubeライブ配信視聴はお休み(笑)。



「昨日は、トン汁とうな丼。今日は水曜日ですが、明日仕事なので、家で食べるか、☐☐(※息子氏の名)と食べに行きます。土曜日に洗濯したので、あまり洗濯物はありません。」(オトン、元ウチの人)



「おかあさん(※菟田野のお義母さん)こんばんは😊きょうは、ハルカス、ZK(ジーケー)さんの(お造り)「三種盛り」の写真を送りますね😋中とろと❓と❓です。中とろ以外はみごとに度忘れしました😆人の事は言えません。


息子氏は今夜は、おとうさんにつきあうようです。出かける前にお茶漬け食べたけど、お腹具合は絶好調だったと♪😉おかげさまです🙇お風呂でゆっくり温もられて、ぐっすりおやすみなさい💤😪」(堺市、ウチ)




「サザンカは 挿し木や



臘梅(ロウバイ)はなあ もとは こ〜んな ちっこい(30cmくらいの背丈)挿し木やった


親方と一緒で 年数 経っとる 


花は人にやれるよってなあ


花 持って いんでやあ」


(美原区、85歳、農業)






きょうは、26,094歩(18.3㎞、3時間35分=215分)歩きました。










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2022年1月18日(火)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。


「昨日は☐☐の準備したキムチ鍋。夜はばあちゃんに電話しました。コロナワクチンは今月は19日の1回、2月は5回の出務です。」

☐☐(※息子氏の名)


夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(同上で、笑)。


おかあさんこんばんは😊トウサンは2月はまた、ワクチン接種で多忙になりそうです。睡眠と野菜多めの食事と体を冷やさない工夫で、今から体調を整えます🧤🥬😪きょうは、ハルカス、ZK(ジーケー)さんの(椀)の「白味噌仕立て (蟹湯葉豆腐に紅白大根、人参、うるい)」の写真を送ります冬のご馳走♪😍それから、たまたまなんですけど、あとでネットで見かけた元のお品書きには「清汁(すまし汁)仕立て(蟹湯葉豆腐…と書いてありました。私たち(トウサン、弟、お義母さん)が奈良の人間なので、ZKさんが「白味噌仕立て」に変更のお手配を…🤔🙇さすがプロですね♪😉おやすみなさい💤」


それが済むと、要事前申込のウェビナー2つに参加しました。

一つ目は、

「これからを生きる子どもとデジタルメディア」東大Cedepとポプラ社の共同研究

※資料③に、ディスカッションの全文起こしがあります。


二つ目は、

ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』―文学からアダプテーションの世界へ(講師:南谷奉良・日本工業大学教授)



※資料④に、講演と質疑応答の要約筆記があります。
なにか、お気づきの点がありましたら、ご指摘よろしくお願いします。




今夜は、「ZK」さんのコースメニューから、(椀)の白味噌仕立て蟹湯葉豆腐」の「写メ」をアテに「猫ちゃんたち」と晩酌しました🥛🍵(笑)


「う〜ん、ニャンダム🤔」「お髭がニャいダム〜😹」









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資料のイメージ
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※ウェビナー(Webinar)とは、ご存知のようにコロナ禍、私たちの日常に、新たに加わった
 "ウェブ(Web)" 開催の "セミナー(Seminar)" のことです。
※画像が大きくて申し訳ありません🙇‍♀️




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※③


2022年1月18日(火)

東京大学Cedep×株式会社ポプラ社 共同研究プロジェクト 

「デジタル時代の子どもと絵本・本」

これからを生きる子どもとデジタルメディア

講演:「コロナ時代の子どもとデジタルメディア」
森口 佑介(京都大学大学院文学研究科 准教授)

研究報告:「家庭での幼児のデジタルメディア利用および読書に関する調査」
佐藤 賢輔(発達保育実践政策学センター 特任助教)
ディスカッション
ファシリテーター 野沢 祥子(発達保育実践政策学センター 准教授)

司会:高橋 翠(発達保育実践政策学センター 特任助教)



※質疑応答の全文起こし:


森口

少なくとも 私のデータからすれば デジタル絵本は よくもわるくもないというふうに ごりかい いただけたらとおもいます

佐藤

デジタル絵本より 紙の絵本が 好まれる理由は お母様方が どの遊びが 好ましいか  外遊びと 絵本を ついにして 全部と 比較して だんとつで デジタル機器の 人気が ないんですね あんまり さわらせたくない そういう意識 強い おやごさん 多いのかなと

森口

使い方によっては デジタル機器も いい気がするんですけれども

佐藤

つかってみて なんか あわないと 言う人もいれば  デジタルで 楽しい 本もあれば こどもが かってにさわって 一時停止になったりというふうな 使い勝手の 問題もあるかと 思います

森口 

喰わず嫌いは 勿体ないなと いう気がしましが

佐藤

子どもが 長い時間 スクリーンを みているなら  みるときに ユーチューブを みるより デジタル絵本を みた方が いい そういうふうなことも 自分は 考えています

ファシリテーター: 野沢

絵本って 身体性があるといえますよね ご質問を いただいています まず デジタルメディアの すきるが じょうたつことの 危険性は てれびより 大きいですか?

森口

直接 危険だということは データでは 特にない 中毒性ですね 台湾の 10歳児の 2割に あるということで おやが とりきめの ルールつくる あと 視力 両眼視ですね 視力の発達に わるいということは にんしきされているので 

野沢

ユーチューブでは 親が 思っても見ないような 動画を 子どもが 観ることも あるので そのへんはどうですかね

森口 

セーフティーネットが ありますけども なかなか 子どもの方が 抜け道を 知っていたりするので 難しい所では あるんですけれども

野沢 

発達に応じて 親が 関与していく そのときに いちがいに だめではなくて 

あとは そうたいてきには 絵本の接触時間は へってしまったことはあるのでしょうか?

森口

総メディアのなかで デジタルの 占める割合が あがってしまったことは ちょっと あるかな それは コロナ禍 図書館が しまったこともあるので  特殊な 状況かなと ちょっと 思います それいじょうのことは ちょっともうしあげられない すみません

野沢

大家族とは? 

森口

家族の サイズ 人数 おおければ もんだいこうどうが すくなくてすむ そういう 相関がある サポートになる ただ かならずしも そうとはいえない 人数 多いことが さらなる ストレスにも なることがあるので 難しい所ではあります 

野沢

よいばあいと わるいばあいが 混在していることは ありえるんでしょうか

森口

データだと どこまで 過剰と言うのか 可能性としてはあるかなと 思っています SDS(「安全データシート」のSafety Data Sheetの頭文字、化学物質の危険有害性情報を記載した文書のこと)は 年収の一番低い層だと 直線になる

野沢

3じかん 4じかんに なっていくと 影響がある テレビ 観ていると ほかの かつどうが へってしまうと 感想が きてます 

森口

おやこと いっしょに きょうゆうしてたら いいのかもしれないですけど 一人で観てたら ちょっと ですね

野沢

デジタルメディアは 指先の 微細運動の 発達の面から 考えると よいかと おかんがえですか?

森口

3、4さいくらいになってくると 頁送りは 徐々には できるようになるとおもうので 知育になるのかな  まだそこまでは しられてないです それが トレーニングになるかどうかは まだ わからないですね 相関はあるかと

野沢

子どもの 成長にとって デジタルメディアがあることで 読書の時間が 割合が 減ってしまう あるか?

森口

自分自身 たしかに 本から学ぶことは 多い ユーチューブから 数学を 学ぶこともある  格差が 広がる 使い方によって いい使い方 悪い使い方 のびるひとと のびないひとの 格差が 凄く広がる事を もんだいに した方が いいのかもしれませんね

野沢

個別性が 高くなると 昔は みんなで 共有して みんなが 観てたんですけど 今は つかい方にも 格差がある そこにある リテラシーに 格差がある そこを だれが 教育するか?

森口

難しい所かと 思うんですが あくまで メディアは 手段なので どうこういうのは 違うかと思います

佐藤

スクリーンタイム 減らすのは 難しい 何を だれといっしょに 観るかを やっぱり かんがえて行かないと いけないなということで らくだから どうがを みてるときもあって フィルタリングされていても なんで これが フィルタリング されてないの というのが あったりとかするので これから もっと 楽で たのしく おやにとっても ストレス かからない 技術のシンポが すすんでいくのかなと 思います われわれの くふうも もちろん あったりするんですけど 

野沢

良質な サポートツールが必要ですね にんげんの いしきだけに 頼るのは ちょっと 問題ですよね

森口

教科書のデジタル化は 専門外なので なんともいえないですけど

野沢

個人的な はなしですけれども 娘が デジタル機器を 学校から 持ち帰って 家庭で 友達と 遊んでしまった それで がっこうに おいていても いいというふうに 変わりました 議論が 必要な所かなと おもいます

更にAR VR機能の すすんだものが  出てくることについて お考えがあるか?

森口

じぶんが 研究したいと 思っている分野なんですけど まだ なにかをいえる だんかんではないかなと ただ 視力 はったつには よくない 個人的に AR で さまざまな 共感性 育むと 没入性が ちょっと あるけれども 特に コロナ禍では いまのところ もちこまれると 思うんですけど そうじゃない メンタルヘルスてきには 有用なとこかなと 思っています 

野沢

これから 注目していきたいなと 思います

活字と 動画の 違いは あるのでしょうか?

森口

いまの おとなは 活字のなかで せいかつしてきた そういう人は 活字が やりやすいんですけど どうしても こどもに じぶんたちの やりかたを おしつけがちなので それは ちょっと ちがうかなと おもっています 世代によって へんかがはやいので たんじゅんな あてはめが むずかしいかなと 思います

野沢

最初に 出会うものが 違うということの 研究は すごく すべき事かなと 思います これから ちょっと 研究していかなければ ということですかね 保護者の 平均年齢 によっても 考え方の違いは あるでしょうか?

佐藤

データを とっていて このあと ぶんせきしていったら あるのかも しれません 今の 若いお母さん方は ぜんぱんに 抵抗感に そんなに ちがいは ないので これからの 未来の お母さんがたに でてくるかなと いう気がします

野沢

家族サイズと セーフティーネットの相関があるとのはなし でしたが オンラインにについては 何か 知見あるか?

森口

データ とったのは じぶんで オンラインやるのは まだむずかしい 年齢の 小さいお子さん だったんですけども メンタルヘルスに 影響があることは 想像はできるかなと おもいます

野沢

スクリーンタイムが ながいなら 質の高いものをと お話がありました どんなものがありますか?

佐藤

いろんな絵本 ためしたわけではないんですけれども 個人的に 絵の こまいかい部分を いろいろみながら は デジタルには あまり むかないのかなと とちゅうで もどったりとか ぎゃくに 映画的に しんみり いい話で おわる絵本だったり そういうのは デジタルで プロの声優さんがついてたrきすると より 臨場感が あるのかなと

森口

えほんから はなれるかもしれないけど 外国後まなぶことが 難しいひとには ビデオ DVD は 一方的で 難しいと 他方 ズームは 相互性があるので よく学べると 言われているので 少し子どもが じぶんで 関われるような デジタルコンテンツ デジタル絵本は こどもは 親しみやすいので いつからはじめて というのは おとなが サインを だしてあげる デジタル絵本も なにか しかけられるんじゃないかなと いう気がしています
野沢

外国語 (日本語が母語ではない)の 絵本で すこし むずかしい特性をもっている お子さんが 集中できるような デジタル絵本を 研究しているひとが いるので やっぱり 日本でも ちょっと 特性を 考えて つくっていくことも これから 大事かなと 思います







※④


2022年1月18日(火)

上智大学ヨーロッパ研究所主催講演会

ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』―文学からアダプテーションの世界へ
講師:南谷奉良(日本工業大学)

司会:小川公代・上智大学 外国語学部英語学科 教授



※講演の要約筆記


きょうのもくてきは ユリシーズは 2022年で しゅっぱん 100周年 むかえます 1 面白そう よんでみようかな? 2 よんで せかいのみかた すこし 変わるかな? ちょっと せかいのみかた ちがうかも? そういうふうにおもってもらえたら とおもいます

わたしは ユリシーズに そんなに ふかいかんしんが あったわけではなかったんですけども やってみて みりょくを かんじてきた なにげないものに めをとめる せけんのなかにある かちを みいだす けっこう ほぞんしているんだ なにげないものを せかいの ふくせいせいを みるときに じぶんの してんで みるより べつの しんたいで みたほうが ほのみえるのではないか そんなことを はなしたいとおもいます 


写真は ユリシーズ 読破する会の ポスターですけども アダプテーションとしての イラストとして きがぬけて なごうやかな かんじになって なかなか よいのではないかなと 思います 


ユリシーズは どういった おはなしなのか ふたつあります いろんなこんなんが 生じる(変身しつづける都市 ダブリンの)1904年問題 がひとつと  一人称視点に 入る方法 があと一つ 


ジョイスの 作品は 4つあります じつは むずかしいじゅんに アダプテーション はじめられている フィネガンズウエイクからです 多様性に満ちた 作品を べつの メディアで 表現したいと( 1966年) そのあと ユリシーズが 映画化 モノクロ映画です そこから カラーになります あとで だいじになるので おぼえておいてください ジョイス ジョン・ケージの音楽 そのあたり 観るといいんじゃないかなと思います すごいたくさん あるんですね 2003年をこえると デジタルのもので アダプテーションしようという こころみが でてくるんですね 2009年は 漫画で読破ユリシーズ 本としては 最低の出来です 誤字があって 最低限のリスペクトが 欠けている だからこそ 自由な本ではあるけども いい出版物として だしてほしいなと 思います VR ヘッドセット かぶって ユリシーズのせかいに 没入するものも でてきています 2014年 最近 AI これから 機械が 参入してくるのは 間違いないと 思います あたまのなかで かんがえていることが 句読点無きに 乱入してくる そういういしきが あたまのなかに 流れている 句読点で くぎられた意識ではなくて 混沌とした 意識を ジョイスは 書くために そういう試みをしたんですね これに 句読点を付けていく試み とか 2021年 冒頭 くらいに ある文字列を 与えて ex おもちをもったはりねずみ それを 文でいれると 機械がネット上から さがしてきて 構成できる 機械が 出てくる 結構 試される 未完に たいてい 終わる あたらしいものと ジョイス すぐ なぜ 関係を 結ぶのか わたしたちの いきているじたいと つながっている 世界の 描き方を しているからなんですね 


1904年6月16日の ダブリンの一日を 描いている まだ 支配されている ブルームズデー 毎年 同日に 祝祭ある オデュッセイア と関連している 実在の人物 動物 通りを 書き込む 事実に基づいた 世界を 公設していく なんとも壮大 ジョイスは いつの日か ダブリンが なくなっても 僕の方から 完璧に えがきたいなと モダニズム文学の 最高峰とも もっとも難しい 第一位にも 投げ出した本 読んだふり ベストスリーにも 入っている

たしかにすごく じかんがかかる 作品なんですね これが ユリシーズのステータス ゆうめいだけれども よまれていない 膨大な知識が あって 中に 世界中の ありとあらゆる 歴史が 流れ込んできたりしますし ありとあらゆる 分野に てをのばしているので 知的分野に 埋没してしまう 


違う読み方として ありふれた 日常の 叙事詩 として 私は あるときから 読むようにしました 参照:「文学とアダプテーション2」p.174

ブルームは 採集的に 家に帰って ベッドに着く もうひとりのかたのことは 言いません 朝食を作って 3にんが ご飯を食べている なぜ そういうのが 描かれるか ふつうの にんげんとして 生きているからです ふつうのひとびとの せいかつを 祝福するために 書いた 私は ここに 感動するんですね 私自身 地味な生活を 送ってるんですけども そこに 価値があるんだと 気づかせてくれる 


マル モリ どういう意味だと 思うでしょうか 造語なんですね 名前がついてない 誰もが 経験する 感情 個性が無い ところが そんなことなくて こっちこそが 脇役 他の世界に はいったときには 自分が サブキャラクターに なってしまうんだ ありふれた せいかつのなかに 実はかけがえのない プレシャスな ものがあると 日々の生活の中で あまり 劇的な事は おこりません それより 誰かが シャワー 浴びている音とか 冬に朝 ウールのソックス はいて 一日終わった時に 剥す 誰もが はあーっと 息をつく 感覚は わざわざ ちゅうもくに あたいするものではないけど わたしたちの 生活は そういうものから できているんだと 200年前の 人たちは どんなことを かんがえていたんだろう どんなものを たべていたんだろう  そういう小さなことが よりあつまって わたしたちのせいかつは できているんだと それに気づく これが ユリシーズの テーマだと 思うんですけど ほんとに ルーティンの生活を送る中で 大事さ 書かれています 


ジム・ジャームッシュ監督版 パターソン と言う作品は ユリシーズを 読んだことで 着想したようなんですね というわけで 映画 もしよければ 観て下さい あるおばあさんが 藁という なんのかちもない つまらないことで 1時間 語ることができる ブルームも 輝かかせる ことができる  あたりまえすぎて 言われなかったことを あえて 言葉にしてみると かけがえのなさ 関係性が あらわれてくるんじゃないかな 是非 ユリシーズを 読むときは じぶんのたいけんと 重ね合わせてみてください 


二つの困難のひとつめ

高層住宅を 建てたい プランは 結局 全部 却下されたんですけど いま ダブリンは どんどん 変化しているんですね  1904年問題は 言葉だけ コピーしている もっと 実験的な事 やったほうがよかったんじゃない 1988年のテレビアンテナは失敗だった  ダブリンの海岸は 傷つきやすいので きえさってしまって コーストが 島になってしまうだろう  ブルーアイランドは なくなってしまうだろうと ブルームは  言っていた 実は ほんとに そういうことが おこりつつある わけですね 住宅危機 どんどん 開発・荒廃 どうじにすすんでいる 仕事を持っているけど ホームレスがたくさん ふえている とりのこされている像や ぽかんとおいてある駐車場  フランクマクドナルドさんが 言ってる 緑色の郵便箱 ポスト だけになってしまうのではないか は イギリスの支配下で 元々は 赤い色だったのを 塗り替えて 緑色にしたという 凄い 歴史的 意味を 持っている訳です 

ここまでは なにげないものの かちを ユリシーズのなかに 探してみよう そして 価値を とりあげてみることが おもしろいという 過去の試みの紹介で それを現代と 結びつけると なお よかったのかccccccccなあと 私は 思っています


二つの困難のふたつめ 

耐えられる 痛みの違い 痛みの存在について 言われる事が多いです 右側に 1本 矢がささった 小狼 左側に 22本 矢が刺さった 大狼 数えられない 狼の 一人称視点 を かんがえてほしい  22本とは かぞえられない たくさん ささっているなとしか わからないという 客観的ではない 一人称的な視点です 数学の質問を しに来た生徒に ステイーブンが ちいさかったころの自分を見る ひつようなのは 唇が 動いていない声を (画面に表示された文字を読み上げる)ボイスオーバーで 流せば かんけいが 実現する このシーンには  強烈な 違和感を 感じる 同じ声ではないものが 映画の中で 同一の声に されてしまうことによって 客観的な 声でしかない ほかのひとが きいてる声と 違うものを 本来的には 流されるべきなのに ボイスオーバーでは おんなじになってしまう 漫画の場合は どうかというと 結構 いろんな バリエーションがあって 面白いんですね 複数的な 視野で 描かれていて グラフィック・ノベルも 同じですね

VR :多分 学生の皆さんにとって これが おもしろいんじゃないかなと ほんとに 手が カフカの「変身」の 虫の手に なるんですよ 見るのは 衝撃的で けっこう 文学作品のなかに こういうのが はいってくると 変わるんじゃないかなと 思います 観てみましょう  浜辺 貝殻を 踏む音が する そういうシーンです 夢想が 終わると 現実に 戻って来る めをひらく わけです ある種 独我論的な 世界を 確かめようと してるんですけれども 私との関係性を かんがえさせてくれる いい機械だと思います まだまだ 始まったばかりで これから 期待できる 産業コンテンツですね 近い将来 ゴーグルで いま ズームつかってますけど 世界に入っていけるとか 


ありふれた 生活者として ありふれたところから ユリシーズに はいっていくことを わたしは おすすめします 気づいてない 価値が 眠っているかも しれません いろんな 着想が得られる 世界が どういうふうに 見えるのか 一人称視点が 発展するんではないかなと思います 


さいごにせんでんです

①読書会 次は 2.27(日)1時半~5時

②2.2(水) オンライン ジョイス誕生日 8時から10じ 2回目以降は 毎月 だいいち だいさん 金曜日

③6月11、12日 大妻女子大学 (予定)





※質疑応答の要約筆記


>見る・読む側が作品の主人公と共感する(一人称視点に入る)必要性が『ユリシーズ』にあるのでしょうか。1904年問題でも取り上げられたように、ありふれたことや日常は時代によって異なる部分が生じるのは仕方がないことだと考えます。「ダブリンの町が消えてしまっても本を読めば再構築されるようにしたい」と書かれていても、時代を経て実現できる「Maru Mori」のリアリティの質は、否が応でも下がるものだと考えますが、先生はどう思われますか?


南谷

だいじなところですね 必ずしも共感する ひつようはない 登場人物が いったい何を見ているか という視点はだいじかなと  リアリティーの質は まったく おなじものではないというのは 事実ですが それが 自分たちのライフを 構成することに 気づく そういう リアリティーのとらえかたを ユリシーズから 得ると言う風に うけとめることができるんじゃないかと 思います

小川

ウルフと ジョイスの 違いは?

南谷

比較すべき 対象と 思うんですけども より深い感じがします ジョイスは ドロドロしたものとか きづかない 内面とか 意識の深さへの たいどが 違うかと 思います ジョイスは 内面に 降りていく事は あるんですけど 観たくないレベルを 描いている感じは わたしは しない 比較的浅い 表層を 描いてるんじゃないかなと いう気がします

小川

ウルフは えぐりだそうとする アダプテーション向きは どっちなんだろう?

南谷

カフカの変身は そういう意味では アダプテーションに むいてるなというきがする 作り方の 問題かなと 思います

小川

比較的に 漫画は とらえることができる ジョイスは ふさわしいのかなと  映画は 困難かなと そういうてん ごせつめい いただいたと 思います どんどん Dublinの けしきが 変わっていく 補足説明も 勉強になりました

質問

>レプリカ再現するには 年数 たっていて 1922年 だしているものには アクセスできないものも ある それをどのように克服すればよいか?

南谷

資料を 送ってもらう この時の 建物、方言 これでいいのか 一々 問い合わせたりする  歴史的な作業を やりながら 私は 再現性を高めていったんですけども 完璧に 1904年 再現は ありえないことですけれども

小川

正確な描写をしたい 思いが ジョイスに あったということですよね おもしろいですよね ギャップは できてしまうものね かいてるうちに どんどん かわってしまう

質問

>読解力の 高い低いを どう克服すればよいか?

あんまり たかい ひくいを 読者に つかいたくない 言葉の関係性を 読み切れていなくて 読みの深さの 違いが 出る ということは あるかなと 思います たとえば  最初に 出てくる言葉が あとにも 沢山でてきて すごい 言葉の 関係性を 結んでいくところから 読み取るなど わたしも えらそうなこと 言えないですよ わかっていないこと おおいです


>ユリシーズ、初読ではまったく何が起きているのかわからないのですが、ユリシーズの解釈がまったくダメとかいい線いってるとかはどの辺で判断するのでしょう。解説本を読んでわかった気にはなるのではなく一読者として解釈していくときのよりどころみたいなものがあれば教えていただきたいです。

南谷

ある解釈が 全く駄目の例は 浜辺で 何かをしている シーンの 解釈の 捉え方 あります 派手な捉え方としての 海辺で 突然☐☐する  それをささえる 論拠ないまま おもしろさ のみで 言ってしまうと そうなる  論証が 必要だと 思います


>「ダブリンの町が消えてしまっても本を読めば再構築されるようにしたい」とジョイスが言っているのは、ジョイスが、人が生きている以上変化を免れえない都市の変貌を見越していた、それがユリシーズを書いた一つの契機、ということはあるでしょうか?

南谷

ジョイスは 1904年に なんらかのかたちで 意味を 見い出していたと 戦争を 破壊されて行った 過程を 外国から 見ていたわけですね どうせ へんかしていくから かいておかねばは あると 思いますし それと同時に 色んなもので 構成されている それは 今と 変わらないんですけども それが一番 よく 分かるのが 1904年 だったんじゃないかと 思います 私も 誰も 撮らないよいうな 路地裏の 写真を 撮ってきたんですけども あれは 調べたら リトアニアの 移民の人たちが 残した 文字だったんですね  

>ユリシーズの文学のアダプテーション作品があれば、おしえていただけますでしょうか。

南谷

さきほど チャットに スライド 共有してます あとで それを 見て頂ければ しっているかぎりにおいて みておくと いいんじゃないかなと 思うのは ユリシーズでいうと 

それが いい描き方かというと 別なんですけども 100% すすめたいというのは 正直な所 ないのですね 断片的に いいところが つながっているので まずは ブルーム それから ストリックの ユリシーズが いいかなと 思います


>さいごにもしなにか一言あればいただきたいと思います

南谷

がくせいにむけて 凄い不都合な時に 学生になって つらいと 思います 私は 文学作品が コロナ禍を 救うとは あまり いいたくないんですけども じぶんのことばを 強化する ものをみる 見方を変えると とりあえず いっかい なんでも ふれてみて なんでもいいんですよ 骨董でも オペラでも 自分がぜんぜん きょうみのないものに とりあえず ふれておく いつか ふれるチャンスが くるんですね それは いっかい ふれてないと おこらないんですね このあとに いずれ もっと たのしい やくどうてきに うごきまわれる 時間が くるはずなんで 興味があれば そういうてつだいを わたしは したいなと 思います




※南谷先生のご紹介リンクの再掲です:


(1)2022年の『ユリシーズ』ースティーヴンズの読書会(隔月開催)[オンライン]
→2019~2022年にかけて、3年間で『ユリシーズ』を読破する読書会。参加無料
→Stephens Workshop: A Critical Directory of James Joyce and Irish Studies

https://www.stephens-workshop.com/


(2)22 Ulysses ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待[オンライン]

→22名以上の研究者たちによる2022年の一年間を通じた全22回のオンライン講座
初回のみ2/2(水) 20:00~22:00に実施。2回め以降は、毎月第1・3金曜開催
→参加無料。現在申し込み受け付け中
→イベント概要:

https://t.co/a3OF02lEi2


→登録はこちらから:

https://twitter.com/22Ulysses2022


(3)第34回日本ジェイムズ・ジョイス協会全国大会(6月11・12日開催)
→両日とも東京・大妻女子大学にて実施予定
→日本ジェイムズ・ジョイス協会第 34 回大会記念事業(※ジョイス協会会員以外も発表しています)

https://www.joyce-society-japan.com/










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