一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/1/10(月曜日)から今日まで。(第13週ー中半)



**************
1月13日(木)
**************


きょうは、ノーペン🖊デーだった為、通常のメール・チェックとレター書きはお休みしました(笑)。

夜は、事前申込不要のYouTubeライブ配信1つに参加しました。


テーマは、


ウクライナ極右と反ユダヤ主義(赤尾光春大阪大学助教

※資料⑥に、実況の部分抜粋があります。



今夜は、「尽誠」さんの鮨8カンのうちの4貫目、「イカ」の「写メ」をアテに「猫ちゃんたち」と晩酌しました🥛🍵(笑)


「ラーメン、ソーメン、イカソーメン🦑もおなり~🤤(妄想)」「ヨダレゴックンニャリ〜😻」











**************

2022年1月12日(水)
**************


朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。


昨日は☐☐(息子氏の名)の準備したキムチ鍋。今日からオンラン授業。☐☐はこのまま家にいます。



夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(同上で、笑)。


「おかあさん こんばんは😊きょう、大阪(中南部)でも初雪が降りました⛄息子氏は、今週は1月15日(土)、16日(日)が大学入学共通テストなので、オンライン授業は明日の木曜日までで終わりです😉きょうは、トウサンが正月納めに食べたお鮨の「カツオ」の写真を送ります。もっちりしていて美味しそうですねえ~🤤私は、昨日が鏡開きなのをすっかり忘れてましたので、お供えのお餅をおぜんざいにして、もっちりと頂いてみようかと😉おやすみなさい💤



それが済むと、要事前申込のウェビナー2つに参加しました。

一つ目は


※資料④に、スライドとリンクがあります。


二つ目は

演 題:ホロコースト時代における「マイノリティ」救援と教育
       
※資料⑤に、講演と質疑応答の全文起こしがあります。






今夜は、「尽誠」さんの鮨8カンのうちの6貫目、「カツオ」の「写メ」をアテに「猫ちゃんたち」と晩酌しました🥛☕(笑)












~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


******************
資料のイメージ
******************

※ウェビナー(Webinar)とは、ご存知のようにコロナ禍、私たちの日常に、新たに加わった
 "ウェブ(Web)" 開催の "セミナー(Seminar)" のことです。
※画像が大きくて申し訳ありません🙇‍♀️


~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~




※④


2022年1月12日(水)

「世界で一番長い道:セサミストリートが歩んだ
教育イノベーションの歴史と今後の行方」
講演:長岡 学・NPO法人セサミワークショップ 日本代表
ファシリテータ:石戸奈々子・超教育協会理事長
https://lot.or.jp/report/7018/




「セサミストリート」上陸半世紀 日本未放映作を配信: 日本経済新聞



メットライフ財団とセサミワークショップ 金融教育プログラムの提供を開始 





※⑤


2022年1月12日(水)

演 題:ホロコースト時代における「マイノリティ」救援と教育

       講 師:岡典子・筑波大学人間系/障害科学域教授

http://www.human.tsukuba.ac.jp/research/archives/45963


※講演の全文起こし


もともとは 障害児教育の歴史の研究者だった私が なぜ このテーマに 関心もつようになったのか  まだ 着手したばかりのため いま かんがえていることや これからやっていきたいと かんがえていることを 今日は 共有させていただければと 思っています

「ホロコースト」は 戦後かなりたってから 使われるようになったことば です 「マイノリティ」という言葉は はたして この時代 表現が 妥当か なかなか そう軽い問題ではないことが 分ってきた 迫害の対象も むしろ 幅広い ユダヤの人々 それから 障がい者ということになる その他にも 共産主義支持者 アフリカの人々 同性愛の人々 エホバの証人の関係者 等々が 認識されております 



2015年の 欧州(ヨーロッパ)難民危機 では 端的に言うと 一年だけで 90~100万の 難民が やってきた メルケル 全部 受け入れを やりとげるんだと 宣言した でも 実際の所は 深刻な 様々な 問題が 起こって 私は たまたま ドイツに 滞在の機会をもち 結果的に 現場に 遭遇することに なりました 日本とは 文脈の違う ドイツのインクルーシブ教育の実態を  見に行きたいなと 行ったわけですけども 欧州難民危機の 舞台は ドイツにありました 双方の主張が ぶつかりあっている 人道的立場から うけいれ賛成派の人たちも  反対派の人たちも それぞれ 広場に 沢山 人をあつめて 反対派は 「ドイツは これ以上 モスクは いらないんだ」 と 主張していたのが 印象的だった 「移民 難民 これ以上 ドイツにいらない」 と 「ナチス ナチ 」と言って やじるんですね 難民問題は まさに 現代の問題なんですけども 海外の人々を うけいれるかどうかの 根底に 常に ナチス・ドイツの 過去がある どう咀嚼して いまの ドイツを つくっていくかと かならず それが むすびついている ドイツにおける インクルージョン・「多様性」を どう うけいれていくのか あるいは いかないのか その出発点が ナチス になっていることを あらためて 感じました 難民専用の プラットフォームが できて 外から 見えないように ついたてをしたりして そこに 次々に 難民が 入って来る 放火事件は 毎日のように おこる テレビを つけると 炎を あげて 燃えている これでも 小さな放火や 暴力は テレビで いちいち ニュースにならない それが 日常なので… そういう話を くりかえし 聞きました 地域によっては 村の人口を はるかにこえる 数の 難民が やってきました 日本で 考えるときには 「人数」の上でも マジョリティが 少数の人々に 配慮するという 文脈で 「マイノリティ」のことを 私自身も とらえて いたんですけれども それほど 単純な構図ではないんだ そもそも どちらが 多数者で 少数者なのか 非常に流動的なものだ 感じました 学校も てんてこまい しています それまでも 難民は いたんですけれども ドイツにしてみれば 突然に 起こったことだったので 問題視の対象が 障がいのある 子どもたちから 難民の 問題に 完全に 移っている そうしたことも みるにつけて 次第に 知るようになりました 当り前なんですけども 過去の ナチス・ドイツの マイノリティを きちんと知ることが 大切なんではないかなと 中でも 位置づけられた 人々 まずは ユダヤ人 障がいのある 人々 かならずしも 学校教育に 限定できない 教育に 着眼するように なりました 学びの施設は どんな役割を 果たしたんだろう いくつかに カテゴライズできる ドイツの障がい者への 従来の研究の関心 そこでは ユダヤの人たちの 中にも 障がいのある人は いたわけで 二重の 障がいがある 彼らにとっての教育は どんな役割を 果たしたのだろう アウシュビッツ移送が 始まったあと 死ぬことを 運命づけられた人たちへの 教育の意味とは どんなものだったのだろうと いうことを思いました ナチス時代の 処遇である 安楽死や 断種のことは よく知られています 単純に それだけではなくて 多租性のあるものだった 部分的には 障がいのある人は 社会統合 後々のインクルージョンに つながっていくような 側面もありました 一方で ユダヤ人に対して もっとも 迫害が 熾烈だった グループは どちらに対して より過酷だったか というと  圧倒的に ユダヤ人に対して でした 障がい かつ ユダヤ人である人々は 一概に 皆殺しの 対象ではありませんでした 一面的に とらえられがちですが 決して そうではない そうしたところに 目を向けて行った時に 掘り下げていく事が 被迫害者 と 社会との関係を 深めていくときに 有効になると 考えました この時代の 障がいのある人への 関心は 優生学 が 主流でした これまでの マイノリティ研究は 人間の「死」に 着眼した研究が 中心だったのではないかと 思います 「死」から作った  命を引きのばさせるために 教育者が どう尽力したか が 中心だったと 私は 思います もうすこし 広い意味での 教育学、「死」を前提にするのではなくて 人が生きる ことを 前提に 分析していこうとすると まだまだ 未着手の部分は 多いのではないかと 気づきました ここからは 具体的な 事例を 釈迦に説法もたくさん あると思いますが 述べていきたいと 思います 特にユダヤ人の教育の 大前提として 押さえておきたいのは アウシュビッツは インパクトが あまりにも 大きいのですが 誰しも 最初から アウシュビッツが 跋扈(ばっこ)していたわけではない 1941年秋~42年の 二年間  という 短い期間に すさまじいことをした 事実上 ユダヤ人の学生は 大学に これなくなった 小学校などでも ドイツ人と 同じ学校へ 行く事が 禁止された 収容所に 移送される 頃には すべての 学校に 行く事が 禁止された 全体として 教育の機会を きわめて シビアに 奪われてきた それを まず 押さえておくことが 前提ですが 合わせて ユダヤの人々は 非常に 歴史的に 国を持たない 人々でしたので 教育に 凄く 熱心でした 幅広い アカデミックな 分野で すごい勢力を もともと 持っていました 証券方面の 47パーセントは ユダヤ人 医学・哲学科は 4人に1人 弁護士は 3人に1人と それほど もともとは 教育を 重要視する 人々でした それぞれの 人たちにとって 教育は 何だったか 「死」が 確実にくる その中で 継続された 彼らに対する 教育は どういう意味をもったか 安楽死政策は ナチスの時代 ずっとではなくて 2年間足らずだったんです 



法律がつくられて ヒトラーユーゲントという 国家に対して 従順な 若者だけの 組織を つくられた 全員 強制加入 男児は 18歳の徴兵まで 兵隊を作る教育ですから  障がいのある子どもたちは 加入対象では ありません 障がいのある子どもたちは 何をしていたか ヒトラーユーゲントの 障害児バージョンですね ドイツの青少年が 呼びかけているわけです 「何をやってるか 不思議に思うだろう あることすら 知らないだろう 国家に対する 全く同じ義務を はたしている」と 当時の 文脈で「社会的統合」を はかっているのだと 誇り高い 国民なんだと 子どもたちは そのことを 誇りに思った 写真に写っているこどもたちは 視覚障がいがあって 周りにいる 子どもたち 横の子どもたちの 手の高さが 見えないから 高さが バラバラなんですけれども 障がいがあっても そこに参加できる 自分は 選ばれた 健康の 子どもなんだと 障がいのあるこどもたちは 誇りに思った ドイツ人である 自分たちの存在に 誇りを 持たせる 存在でもあった 歴史的な事実として ユダヤの人たちは 歴史的に 自分達で 学校を作って 運営している 歴史をもっている人たちでした 障がいのあるこどもたちへの 教育も もちろん ありました 最後まで 行われた 営みは いろんな 意味を持つんだろうなと 思います 


イスラエルろう学校
 かつてあった  この建物は 今でも 学校として 使われ 記念碑があるんですね この建物には ろう学校は 成人も いたけれども 若い人が 多かったので 「42年 絶滅収容所に 移送された」と 書かれているわけですが 講話が おこなわれている 写真です イギリスのロンドンにある ユダヤ人ろう学校に 受け入れて貰っています 数は少ないですけど 子どもたちが 救われています 


「キンダートランスポート」の 数は少なくて 最終的に 絶滅収容所に つれられてしまったんですけれども 非常に 稀有な 事例なんですけれども そういうことをされる校長先生が いたからこそ いのちが 救われる事になりました 1942年 ギリギリまで 障がい児の 学校が ドイツに 存在しました 


ユダヤ盲人施設」の 家族にとっての 意味 は ふたつありました 結果論としては 二つは おなじ 意味になった「イギリスに 預かってもらっている だから 家族は 亡命できる」という意味と、 「一緒に連れて 海外に移住するは ほぼ 無いに等しい 選択肢がないので ドイツに残して 自分たちは 亡命する」という意味 ふたつにひとつしか 選択肢が 実際にはないと わかっていたとは 思いますが もしかしたら ここ(ユダヤ盲人施設)で 保護して 貰うことで 一抹 心を 慰めることに なるかもしれない  ほかのきょうだいを 守るために 障がいのある子を 残していくけれども この子は 先生が 守ってくれる そう思うことによって 移住すること 亡命することに 「役に立った」と そういう おなじ 意味がありました


ゲットーに 収容されたのは 良く知られています 死を目前にしても 子どもは 未来 そのものである 大人にとっても 救いだった 肉体的苦難を 叫ぶのではなくて 絵を描いたり 詩を書いたり じぶんたちの中で 昇華していく そういう事がおこなわれていたことが 分かっています 移送を逃れた  1万人ほどの 潜伏ユダヤ人の人たちが いた それを 助けてくれた 人たちがいた 衣食住や 密告から 守ること など できることは 極々 わずかでしたが  エリザベート・アベックは 勉強をおしえた 結果論として 半分くらい 生き残ったと 言われているんですが ほぼほぼ 生き残れなかった ほとんどの人々は 衣食住の面倒や 体をかくしてあげて が 精一杯だった 勉強は すくなくとも 二桁のこどもたちに 臨時的に 継続的に 教えていた こどもたちに 生き延びた人たちの その後の 回顧録の中で 「教育は 精神的 支えだった」と ありました いのちにかかわる活動や資料なので 残されたものは 断片的 なんですけども 人は 死に直面しても 最後の最後まで 学びつづけたことと それが その後の 彼らの人生に どう かかわったかの中に 私は 教育とは何か の 答えが あるのではないかと思います。




※質疑応答の全文起こし



>障がい教育と ユダヤ教育には 二つの側面があったと ホロコーストでは それが なかったと 言われましたが どういう特徴があったのか? また ヒトラーユーゲントで 教える 先生たちに ゆがみがあったとは それはどういうものだったでしょうか?


岡典子・筑波大学人間系/障害科学域教授

安楽死政策が 激化したのは ナチスの時代と 大きく 関わっていたと思います 強いドイツに 寄与しない いささかでも マイナスを もたらすターゲットとして 障がいのある人たちを 見なした一方で 安楽死政策は 教会の批判、家族の批判が あったりで 国をまとめていく上での 足かせになりますので 尊重させた でも ユダヤ人への安楽死政策 は そうではなかったというのがあると思います


ヒトラーユーゲントが 当時の政権に どのくらい 靡いたかは わかっていませんが 意味は 持っていた 子どもたち自身も そのことに 率先して 加わっていきたがった そういう 時代の潮流が あったかなと 思います







※⑥


ウクライナ極右と反ユダヤ主義 
〜岩上安身によるインタビュー
ゲスト:赤尾光春・ 大阪大学助教(※収録当時)(前編) 
https://www.youtube.com/watch?v=FkoQKC6Hcnw



※実況・全文


※実況の抜粋


岩上「ウクライナの政変は現代の出来事ですが、ウクライナにはウクライナ系とロシア系住民が混在し、反ユダヤ主義を掲げる極右勢力の存在など、ユダヤ人と周辺民族を含めたヨーロッパ全体の歴史を知らないと理解できない点が多々あります。歴史を溯ってお話をうかがいたい」


《新版世界各国史》20.ポーランド・ウクライナ・バルト史 | 山川出版社

赤尾氏「1648年というのはユダヤ人の記憶に刻まれています。フメリニツキーは最初のウクライナの国家形成の大きな英雄だが、1648年のフメリニツキーの乱で、残念なことに、ポーランド全域でユダヤ人に対する暴力行為があった。」

赤尾氏「1768年、ウクライナのウマニという場所で2千人が虐殺されます。私の博士論文は、このウマニの話。ユダヤ人のあいだでウマンと呼ばれる場所は聖地のこと。ハシディズムという旧ソ連におけるユダヤ教敬虔派が…」。

岩上「ハシディズムの説明をお願いします」

赤尾氏「ハシディズムは18世紀前半に鬱蒼と森の繁るウクライナ中部地方で生まれたユダヤ教分派運動または改革運動の一つです。イスラエルバール・シェムトールという、遍歴の札折が歌、踊り、衣食住、それに我々からすると娯楽的なものを含め、全てが神に通じる道であるとした。だからイスラムで言うとスーフィズム的で、大衆運動として物凄くポピュラーになっていく。日本で言うと……」。

岩上「念仏踊りのような。法然や親鸞が出た鎌倉仏教に似ていますね」

ウマニはイスラエル国外で最大の聖地で、そこへの巡礼は200年続いている。まさにユダヤ教のディアスポラ最大の聖地であるこの場所が、同時に、ウクライナの歴史では、反ポーランド蜂起をした民族のプライドのシンボル。そして極右の聖地です」


ウクライナ・ナショナリズム / 中井 和夫【著】 


赤尾氏「だから、現代のウクライナ人とユダヤ人の関係性を見ると、西側に住む政治的なパイプを持っていたり、議員であったりするユダヤ系の人たちが ウクライナ極右の露出を嫌うわけです。」

岩上「非常に重要なポイントですよね。ウクライナ西部でネオナチ的なものや排外主義的なものと、ユダヤ人がそこを公地としていたかというのが重なりあうことが説明できる」

赤尾氏「欧米の監視に対する当局のウクライナの行政機関や政府は非常に敏感。反対に 極右はそれに敏感でない」

岩上「欧米は、わざわざそこを挑発しようとしているわけですね」

赤尾氏「そうです。日本の排外主義がすぐに欧米で問題になるのと構造が似ています」



赤尾光春先生のご専門とご研究記録






ご都合が宜しければ、定額会員登録を






×

非ログインユーザーとして返信する