一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/5/16(月)から今日まで。(第31週ー前半①)


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2022年5月16 日(月)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。


「土曜日は尽誠、日曜日はREVOでした。今週は、木曜日は午前中にM保育園の健診、土曜日はIらと鮨、日曜日はフリーです。」(※◇☐:息子氏の名前)



夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(笑、同上で)。


「おかあさん コン🦊ばんは(笑)


今日は大阪の空は満月がまったく見えませんでした🌕

でも、昨日は、おぼろ月夜でした🐰🌖🐇

夜の8時ごろでしたか、

近所の公立校の裏門前で、青年が膝を抱えて座り込んでいて、

そこへコンビニの袋を抱えた老婦人が二人やってこられました。そして、

袋から出したペットボトルの水を青年の前に置いて、帰っていかれるところを、

偶然、通りすがりに見ました🌖🐇

👵👵🍼👨


それでは、

きょうも「根っこばなし」より『神馬(しんめ)の鞍(くら)🐴』⑦をお送りしますね👵👶🐴


部落の人が馬方の人たちの見ている前で、神職に対し、

「神馬🐴が、たとえ百姓の駄馬であったとしても、見せてくれなくれなければ、仕事は引き受けられない。ジャストサイズの鞍を作らないと、馬が暴れて、危険だ」と、

「馬と鞍とは柏手を打つ右と左だ」と、堂々と自己主張をしたことで、

神職のメンツが丸つぶれになった(と神職が思った)話からの続きでしたね🌕🐎


なお、今回の話は、たぶん「切ない系」ではないので、どなたも安心してお読みいただけると思います🤗たぶん?(笑)



「根っこばなし」より『神馬(しんめ)の鞍(くら)🐎』


👵👶🐴


「馬にも 沿わん鞍なんぞ、神馬どころか 神さまさえも、
尻をこさげて(※尻を落とす、しっかりと立てない) 迷惑なさろ」


と、つい、つい、じゃけらまじりに 言いくだれ
「あっは、は、は」
と笑ってまって、口が過ぎたかやと 押えたときは、
もうおそかったと。


真っ青に 逆上した神職が 高下駄の音、かっ、かっと 
部落の者に 近よると、


「おのれは 〇〇のぶんざいで、神に 向って よたこいたなっ(※でたらめを言う)。
神罰 喰らって 足なえよっ(力がなくなり、しびれる)」


と、馬だらいに 両手をかけて 抱え上あげ、
土下座をしとる 背なかから、
馬だらいごと あびせかけたと。


(つづく)


馬のいななき🐴は、いつか、聞こえてくるのでしょうか?👂🐎ヒヒーン


次回、明日の今夜と同時刻頃?を、お互い、お楽しみに(?)
ついでながら、私たちはお互い、メンツよりも、情けを大切に😉🐰🌕🐇✨

おやすみなさい💤😪✨」



それが済むと、事前申込不要のウェビナー1つに参加しました。


テーマは、


「全国水平社100 年~ 部落解放と天皇制との闘い」

講 師: 黒田伊彦(くろだ よしひこ、1936年(昭和11年) 生 、86歳)・元関西大学教員、矢田解放塾副塾長 
主催:部落問題に取り組むキリスト教連帯会議(部キ連


※資料70に、講演の全文起こしがあります(前編)。





「兄ちゃんは 昨夜は “気分が悪いさん” に追っかけられていたみたいニャ🙀

あっちこっちに移動して、追っ払おうとしてたみたいだけど いつまでも ついてくるので 外が明るくなり始めたときには もう移動はやめて 洗濯機の中で 腰を落ち着けちゃったですニャ😹」


「上の仔の追っかけたのはウチも同じで…不時着地でマッサージして、“気分が悪いさん”を撃退しようとして…でもそのせいで、上の仔は、洗濯機に逃げこんだのかもしれんくて…ごめんねm(__)m💧」






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資料のイメージ
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※ウェビナー(Webinar)とは、ご存知のようにコロナ禍、私たちの日常に、新たに加わった "ウェブ(Web)" 開催の "セミナー(Seminar)" のことです。
※画像が大きくて申し訳ありません🙇‍♀️


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※資料70


2022 年5月16日(月) 


2022年度 部落問題に取り組むキリスト教連帯会議(部キ連)総会記念講演会 

「全国水平社100 年~ 部落解放と天皇制との闘い」

講 師: 黒田伊彦(くろだ よしひこ、1936年(昭和11年) - )元関西大学教員

・場 所: 在日韓国基督教会館 (KCC 会館)ホール大阪市生野区中川西 2-6-10


趣旨:

「人の世に熱あれ 人間に光あれ」と謳う水平社宣言を運動の原点とする部落解放同盟は、京都での全国水平社100周年記念集会で、組坂繁之執行委員長は「ロシアのウクライナ侵攻にも触れ『平和なくして人権なし、戦争反対の声をあげ、部落差別がなくなるまで闘う』と訴えた」が、同時に「リバティおおさか」の朝治館長の「負の歴史つなぐ志」の必要性の談話を朝日新聞(2022 年 3 月 4 日)は報じている。その「志」を全国水平社の戦争と天皇制に貫く部落差別との闘いから検証したいと思う。神武天皇陵の拡張と洞部落の強制移転、別府的ヶ浜部落焼討事件から生まれた解放歌、西光万吉の天皇権力による土地再分配と統制経済の奉還主義と皇産主義、松本治一郎の世の水平運動としてのアジア・太平洋戦争への加担の総括から、今沖縄から起こってきている反戦・基地撤去の為の独立と共和制憲法実現への運動の意義について言及する




「全国水平社 100 年~ 部落解放と天皇制との闘い」

講 師: 黒田伊彦(くろだ よしひこ、1936年(昭和11年) -、86歳、矢田解放塾副塾長昨年の関西のつどい、Tシャツコンテストで優勝)・元関西大学教員 の全文起こし

今日 お話する 天皇制の問題は 昨日、2022年5月15日の 沖縄復帰50周年記念式典でも 今年、2022年3月3日の 全国水平社100周年記念集会ですらも なかなか 触れられなかった問題 です


お手元の 資料より はじめに 水平社の名前の 起源について 話させて貰うと 水平社の 水平は 差別なく 水平 という意味で 阪本清一郎(全国水平社創立メンバーのひとり)が 船で 満州から 帰ってくるときに 水平線からみて でこぼこのない 水平だ と 思いついたことで 私が 生徒に この話をすると 「先生 地球は 丸いんちゃう?」と 言われた ということがあり 「いや でこぼことちゃうから 水平やろ」と 私が お話しした ということがあります 


100年前の 創立大会(1922年3月3日)には ざっと 2千人 あつまったと いや 500人くらいやろ という説もありますが 自らの 運動によって 解放するという 水平社運動が 各地に 創られていくわけですが 


米騒動は ロシアという 社会主義国を つぶしてしまえと アメリカと 日本が 密約を結んで 8億円という 当時の国家予算、40億円の 四分の一を つかって シベリアへ 出兵した この状況の 中で 起こっているわけですね 政府は 米は なんぼでも 買うので お米屋さんが 値段を つりあげてから 売る そんななかで 米騒動は おこってくるわけです 


それと 民族自治論が 加わって 水平社が できていくわけで 富山の漁村の 女房たちが お米屋さんへ 抗議に行った これが 全国の 米騒動の 始まりです


大阪の矢田なんか 2軒の米屋さんが 部落に お米を 運んできたんですよ 部落民が 一番 お金に困って お金の値段を あげてもらったら 困ると 思っている 略奪しようなんて 考えてなかったんですね 22銭から 50銭に あがってるんですね ずいぶん 値上がりを しております

 

騒動罪で ひっとらえられた謀反人の 約10%が 部落民で ひっとらえられて 高野山の麓へ そして 堂浦岩松さんという方が 石臼で ひとのあたまを なぐってころした と 死刑になっているわけです 部落民なら やりかねない という 偏見を 利用して 米騒動を うんだ 原因の 責任を 部落に すり替えて いくわけですね


全国水平社創立大会は こういう状況の中で 欧州戦乱の 産物として 開かれ 「民族自決の 暁鐘(ぎょうしょう)は 実に 響いた・・・両手を振り上げて 踊り狂った」と 書かれてありますが 西光万吉さんだけで 書いたんじゃなかった 


平野小剣さんが 東京で はたらいていた その東京で 書いている 民族自決団と 自分たちのことを 呼んでいるんです 


松本治一郎 (1887-1966)さんがね 参議院の初代副議長に なったときにね カニの横ばい事件と言って 天皇に おしりみせたらあかんと 国会開会式で 天皇の前を 通るとき 横ばいになるんですね 「なんで 天皇さんだけに お尻 向けたらあかんねん みんな 人間は 平等やないか」 当時の 吉田茂は あんまり批判すると いかんと 今でも 参議院会館で 天皇さん やるでしょ でも 天皇の休憩所 そこで 終るように なってしまったんですね 


そういう状況のなかで 松本治一郎自身の 記録の中にね 「我々の先祖は 石器時代 こん棒だけで たたかう 民族だった 鉄器をもって 占領しようとした 人に対する 先住民である」 説が あったんですね 彼の中でも ひとつの民族 という概念が 部落民を とらえる キーワードに なっていったんです


水平社宣言を 朗読して)

「勦るかの如き運動は(いたわるかのごとき うんどうは) ・・・ 寧ろ必然である(むしろ ひつぜんである) ・・・」 

ああ かわいそうやな という考えでの うんどうでは だめだ ということなんですね 


だから 部落問題は 部落外問題 なんですね  和歌山出身の 岡本弥(わたる)の “

ぶすは結婚するな 部落の 美人を 保存し 美男美女を 増やせ” 等の 融和運動が 出てきている 状況の中で 青年たちは 日本共産党書記長の 佐野学の 「労働者と 団結して 共闘しながら やらんとあかん」 という考え方を とりいれて 自力解放を 訴えた そして


「此際(このさい)吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起(おこ)せるは、寧(むし)ろ必然である。」

ひくつになってはいけないんだよ 


「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた (じゆうびょうどうの かっこうしゃであり じっこうしゃであった)」 

ここは 平野小剣さんの 民族自決ですね  


「男らしき産業的殉教者であつたのだ」

(おところらしき) ちょっと ジェンダーに もんだいあり おんなもいるよ とうじは こういうことなんです 


「ケモノの皮剥(は)ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥(はぎ)取られ、・・・そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。」 

運命は 神によってではない 宿命ではないんだよ という考え方ですね



「水平社は、かくして生(うま)れた。


 人の世に熱あれ、人間に光あれ。」

あみゅーだ あみださんの またのおなまえは かぎりないひかりのほとけ 無明光仏(むみょうこうぶつ) そういうにんげんに みずから なっていかなければならないなあと そういう考え方ですね 


西光万吉 がつくった これが 水平社宣言です 黒字に 赤色に血ぬられた冠の デザインは みなさん ご存じなんですね 



現在の 部落解放同盟の 旗は 四分の一が 荊冠旗(けいかんき)で あとは 赤背景で この 赤は 労働者の 赤旗ですね 



協同の戦いなんだと あらわしてるのが 赤ですね 部落民だけじゃないんです あらゆる差別と闘っていこう これが 水平社宣言の 精神なんです このことを みなさんは 大事な点として おぼえておいてほしいと 思います



本居宣長は 資料の二ページはじめにありますように 1772年 43歳だったと思いますが 門人たちと 吉野の花見に行って 伊賀を通って 10日間の 旅行をする 『菅笠日記(すががさにっき)』ですが そこに 


「うねびやま 見ればかしこし かしばらの ひじりの御世の 大宮どころ。今 かしばらてふ名は のこらぬかととへばさいふ村は。これより 一里あまりにし みなみの方にこそ 侍れ。」


とあり 橿原というところは いまも 残ってますが 畝傍の山  山口村は ありませんよ 一里行ったところですよ と 言っている 神武天皇社があり その南隣が 水平社博物館なんです 


そして 向井川 西光寺ですね いま 更地になっています あれね 曽我川に 流れこみますが その北側に 神武天皇社が あります 


正月 みんなここに お参りに行くので 水平社の青年たちは 非常に腹立つと 阪本清一郎が おおさかの 西中島村(現、飛鳥)にいる 親戚から 祠(ほこら)を ひとつもらって 燕神社(つばめじんじゃ)を作って 暖かくなると シベリアから飛んでくる 燕ですね そして そこに 燕会(つばめかい)を 創ったんです 


燕会は 1921年7月には 佐野学を 呼んで 自力解放と 労働者との共闘を 学んでいく こういう風な状況の中から 水平社は できあがっていくんです



ということで 橿原神宮は 実は でっちあげだと 天皇が亡くなったお墓は どこにあんねんと 幕末の 公武合体の中で 幕府が先手をうって 水戸藩の師範であった 宇都宮藩家老の 間瀬忠至(ただゆき)に命令して 神武天皇の お墓さがしが 始まるわけですね 




お墓は 橿原の 尾根 と わかるんです 山の下でなければ いけないんですね どうも 畝傍の 橿原の 丸山古墳 ここではないかが 多くの説だったんですね しかし 現地においては ここにございますように そこの市町村にある 小さな 四条村 これ じゃないか いやいや そうじゃない 畑の真ん中に 高さ60メートル この 楕円形の 小さな丘 じぶた 神武の田んぼ ミサンザイと よんでいる ここが 神武天皇の ご陵だと つくりあげていくわけですね



孝明天皇が 攘夷を兼ねて お詣りをするんだ 公武合体論 攘夷討幕運動を 抑えることができるだろうか 神武天皇陵の改修が おこなわれていった しかしながら これが 大きな問題になって 天皇 結局 こなかったんですよ おつきが やってきたんです この時に 畝傍山の 村のまわりが  天皇の使いに 見えないように 穢れが 移らないように 奉告祭(結婚式をしていない二人が、結婚したことを神に感謝報告する儀式)を やっています 差別であります 部落問題と むすびついた問題と なっていくわけです 


1913年の綱領施行 下の段 に 「おどろくべし うねびやま はなはだしく 汚辱を うけている 政府も 人民も 平気な顔して 畝傍山の一角 に 新平民の 墓がある 現に 埋葬された 新平民の 醜い亡骸が そのまま 埋められ 白骨する どんどん 神武の ご陵に せまってくるではないか」と いうようなことが 書かれてまして 政府は あわてて 協議をするわけですね 


220軒ぐらいの 洞部落が あったんですが 雪駄を作ったり たたみおもての 裏の革を はるんですね 転んだら 痛いから 雪駄 履くでしょ ところが お相撲さんは 底面積 なるべく少なくするために 下駄を 吐いてたんですね まあ そういうことは ありますけど 雪駄を 作ってたんですね 25万円の お金を 渡して 自ら 立ち退かす 融和的な考えから 大移転が 行われるわけです 


天皇から お金をいただいて 移動するわけです 洞村は 約4万坪 あったんですが 向いの 四条というところに 一万坪の 洞村を 作った  よんぶんのいちの ところに おしこめられていくわけです 小さなところで 約80ヘーベーくらいが 名古屋 大阪に 移転するしかなかった それは 穢れの思想 だったんですね



こうして 橿原神宮の森林を つくっていくわけですね 橿原神宮も 丁稚挙げられた神社であります まさに 部落差別に基づいた 強制移転が 行われた訳ですね


神武天皇陵決定始末記



これは 部落焼き討ち事件  別府焼き討ち事件 そこから「解放歌」が 生まれてくる 次に そういう話を ちょっと したいと思います


1922年 3月22日から 25日まで 大分県 桜川に  源為朝が 弓の練習をしたという おおきな松があって それを 日赤の 総裁で 日本の陸軍参謀少将だった 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)に ござをかけたり てんぷをつったりした 御召列車の窓から 見て貰おうとして 的が浜村は 非人部落や サンカ の部落で 見苦しいので 焼き討ちにしてしまえと 警官が10数名が 部落を焼くために やってくるんです 


なにを 焼かれる 筋合いがあるんじゃ と抗議をするんですけれども 物乞いをしたりして じつに けしからんと ハンセン病患者が 多いんだから 穢れをまきちらす だから 焼き討ちにしてもいい という記録が 警察にのこっているわけですね 4ページ下の段に 的が浜部落の人たちの と 新聞記事を のせておきました 



げんざいの 愛媛大学 飯塚の三高時代 柴田啓蔵さんは 旧制高校の 一年生だったんです  島崎藤村に 原稿をおくって 将来を 期待されておったんですけれども 「柴田くん 勉強しているばあいか 水平社のため たちあがらんと あかんのちゃうか」 そういうことを 言っていくわけです 参加を呼び掛けるんです 柴田啓蔵は すぐ 別府港に 行き いまは  松の木は 伐られておりました 小学校にありました そこに行って 見るわけですね 文学を 志していたから 「涙を・・・ 桟橋につくや すっかり 灰になってしまって あてどのない住民が むしろや ほったてごやで・・・」 そして もう 部落民は 泣き寝入りを しないと 「解放歌」をつくったんです 


その5番ですが (歌われる、抜粋です)


♪・・・踏みにじられし わが正義 涙は憂いの為ならず 決然たって 武装せよ♪ 


近藤光(こんどうひかる、全国水平社創立のメンバー)の ロシア革命を見てきた 見聞の ことばが 入ってますね  


佐藤紅緑の ♪ああ玉杯に花うけて♪ このうたの まわしをつかって つくられていますね


 

この「解放歌」の もとが 的が浜部落に対する 悔しさの決意として つくられていったことを かんがえてください



柳条湖事件 満州事変とも いいますけども 平野小剣が かかわっていたと おもわれるんです 天皇主義に 近づいていくんです 彼自身は 我々の主は 天皇であると 否定していなかったんですが 平野小剣 略年表のところに 民間人で 水平社宣言を 民族自決の立場で書いた 平野小剣さんが かかわっていたという記録があります 


天皇制は 関東大震災で 西光万吉さんは 大宮まで れっしゃにのっていって 秩父宮を 新しい天皇にしようと しかし 東京駅で 警察によって ひきとめられ 行けなかった なにかと 天皇制と むすびつくんですね

 

爆弾をしかけた 容疑で 松本治一郎も つかまっていくんですね 僕なんか 小4に 終戦に なったわけですから 天王陛下の声をきいたら 起立するんですね 朝礼台で 毎日 敬礼してから 教室に はいるわけです 


天皇制で 平等を実現しよう そういう運動 が あったんですね そして 近畿革命を かんがえていくわけですが 西光万吉も 天皇に こころを うばわれる なんとか 天皇を利用して 差別解放をしたいという 気持ちを この時は もっているんですね


西光万吉は その後 農民運動に入って 農民の小作料の 引き下げを やっていくわけです その中で 大山郁夫などの 無産政党の代表が 8にんも 衆議院に 当選していくわけです 


ひっとらえられて なんとか 20年の懲役 最終的には 死刑という 治安維持法を 発表していく 西光万吉も 1928年 とらえられて 監獄に 入れられます 府中刑務所から 奈良の少年刑務所 そこに いれられて いくわけですね 


1932年 日本共産党を 脱退して ファシズムの 大日本国家社会党に 入党していくわけです 日本において 「ちからによって 満州国を 実現しよう」 を スローガンに かかげている 政党であります


世界の 独占国に 要求権利があり 名目は 大日本国家社会党の 中央委員として 荊冠旗(けいかんき)を 書いたその手で (神武天皇の東征を援けた )金の鵄(=鳶 トビ) 金鵄(キンシ)を 描いた 陶器を 武力的な 象徴ではないんだと 良く教科書にでてますよね 西光万吉は 作っていくんです


彼自身の 主張は どういうことか? 西光万吉は 『窯辺雑記』のなかで ファッショ的な思想ですよ 大化改心の時に 奴隷には3分の1  女性には3分の2 口分田(くぶんでん)を あたえよ と言っている 班田収授の法 それとおなじようなことを せよと 言ってるんです 


農業生産から 地主を 選定し まさに これは 天皇の社会主義と いうべきのものであって 「高天原(たかまがはら)は 差別なき 平等の おかあさんからみたらあかちゃんのような 天国のようなところであり 新旧 差別なき時代であった」と 階級差別 それが 共産主義だと 


1938年 共有地を 作って お米を 伊勢神宮に 納める 共有労働によって 自分の出身の村の青年たちにより とりあげ たてまつるという まさに奉還主義なんですね

 

土地がないから 必然的に 満州移民に 賛成するわけですね 行くわけです たちあがってくる まるで 土の化け物のように そういう状況に なっていくわけですね 「王道楽土」のなかに みみずを 土くそ こどもたちは 全身つちで できあがり 心臓も 脳も 泥で できているだろう という  民族排外主義思想が  あらわれている 残念な状況です 冷めたまなざしは 何処に行ったんでしょうね 


その後 彼は 懺悔の念から  反省から 小学校の前で ピストルじさつを 試みます 村の青年たちが 撃鉄を 抜き取ったんですね 二回の じさつ の年から これからは 再軍備は 駄目なんだ 植民地から 独立した 和栄隊 これを つくれと なるんですね 英語の手紙も 書くんですね そこで 絵を描いてお金をつくる 絵は残っているんです 



松本治一郎も 実は 大東亜戦争を 世界の水平運動と 言ってしまう状況は あったんです 1942年 昭和17年3月4日の 衆議院委員会で 日本と 中華民国国民政府 汪兆銘の傀儡政権と 一緒になって 米英との 戦いこそ 東亜を救う道と 表現しているんですね 


いま 反差別国際運動(IMADR)をつくって 活動どうしている 組坂 繁之さんが 挨拶のなかで 「世界の水平運動である」と そういうことばを 残念ですが つかっちゃってるんですね 


みなさんは 大東亜戦争由縁 ということばを いま つかえますか 侵略の思想を 一度 「世界の水平運動」と 言うてしまっているんですね


ここのところを きっちりと 総括を せなあかんと わたしは てがみを 出し 西岡さんと 会うて 直接 いいました だけども 「そうだね つかっちゃあかんな」と いってるんですけども やっぱり つかってるんですね  責任があるんです われわれの力がたらんのです おうえんしてください



天皇制国家は 身分制国家なんですね  天皇 華族 国民という 三つの部分によって できているんです まこさまが まこさんに けっこんしたら なりましたな いちおくえんを ことわったと どうも せいかつできへんのちゃうかと 女性誌はさわいでまんな


憲法はこう 書いてあるんですね  天皇は 日本国民を ひとつにまとめる 象徴である 根拠は 建国神話に基づく 神の末裔としての 血筋の連続性にある 男子が これをひきづくと 書いてありますね 女性は なれませんわな 第9条に 養子をとることが できないんです おとのこのを産むスペアとして 宮家があるんですね あといない なんとかせなあかん いま もめている 


じつは 天皇の 天皇たるゆえんというのは 神聖にして おかすべからず という 神聖視を 脈絡とし 憲法に はいっているわけですね 裕仁(ひろひと)天皇 彼自身のことばとして のこっています 「神話との むすびつきじゃない 自分は 神じゃない 神の末裔であることは 否定してはいけない」と それだけは言えない 自分の存在意義が なくなるから 


人間宣言は 生き残り策として でてくるんですね あなたが 書いたんですか GHQですかと きかれるんですね 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)は 嘆き悲しんでいるか 話をきいて 「戦争は絶対してはならん」と 喜重郎は かんがえたといいますね 


三種の神器 かたな まがたま かがみ 天皇が 1週間以上 皇居をあけるときには もっていかなければ いけないんです 持っていかなかったら ただの おじいさんです  たえず 神の力にちょって まもられなければ いけないんですね まさに 宗教的な 存在なんです だから 入学式に 君が代が うたわわれますけれども 天皇教の 讃美歌 なんですね だから 29条に かいてありますね 強制してはいけない 


じつは こういうふうに いわれているんですね 資料7頁の 聖と賎の解放史 です 東洋大学の 地下食堂で 差別落書きが 発見された 「天皇は かぎりなく とうとい 特殊部落民は いやしく さいげんなく けがらわしい そこの どこに ぎもんがあろうか えたひにんをこんぜつさせろっ」 たぶん そこの大学生が 書いた落書きだと 


なくなった裕仁(ひろひと)天皇が 十二指腸癌 手術せなアカンと なったときに 明治以来 玉体に メスを いれたことがないと 

玉体 だいやもんどぼでぃー と 書いてある ほーりーぼでぃー とちゃうの? それは イエスキリストの事やの と 僕はいわれました 


陛下の おからだに 庶民の血をいれるの はどうか こだわる意見もあったが 血統の純粋性において 子孫を もう 残すわけではないから いいだろうと インテリ集団の 医師団のなかに こういう 非科学的な 考え方が あるんですなあ


戦後11の宮家を なくした 血をついでいるという 600年前の天皇家と むすびついている 例えば 愛子さんを 結婚させて 産まれた男の子に 継承させようと ことばをのべる 威厳付けをさせよう 議論しようという 意見がある そうではないんだ という考えを 共有しようと 思っております



 軍隊の司令官に なるわけです 女子は 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)と結婚することになった 北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう)は 台湾総督ですね ふつうのひとにもどって いま 靖国神社に おおきなかがみが あるんです むすこが 戦車隊の 指揮官だったんですね 独占しているんです 大きな鏡をを まさに 靖国差別ですな


高杉晋作は えたもひにんもないんだ と 幕府と たたたかうんです しかし 靖国の墓は 山口の 招魂社に 移るんです これを あつめたのが 明治の 靖国神社です そのときに えたひにんは このかぎりにあらずと たたかわせておいて まつらんでええと 大村 益次郎(おおむら ますじろう)が 屠卒(とそつ)だといって 

 

というようなことで このひとたちは みんな 司令官 海軍の宮 朝霞の宮 南京大虐殺の時の 司令官である 太平洋戦争 直前まで 参謀であった みんな 戦犯ですよ 理解しておいてほしいと思います



でも 日本共産党は 綱領改正して 天皇制を 容認してしまうんです 2004年の改正によって 時期を待てと 


黙ってて 天皇制は なくなるんですか どうやって 時期をつくるんですか これが でてきているんですね 


天皇制なくてして 民主主義はない と いわれております 天皇制 戸籍制度 身分差別を 強化する 天皇制に 反対する を ぼやかしています 刑が なくなっていってることは 分るけれども あんなに 丸くなって しまうのは と思います


だから わたしは いいんたいんですが 資料 11頁です 


民主の主の字を解剖すれば、王の頭に釘を打つ 


中江町民の 言葉です 民主主義の 原則である そういう立場からすれば 堀内さんが 長野オリンピックの 欺瞞を 暴いた人です さらに 石垣島出身の 龍谷大学の先生が(※松島泰勝・琉球遺骨返還訴訟原告団さん) 民族自決の 思想がある 国連の 植民地特別委員会に 参加して グアムと おなじように 国連の指導によって 基地を 独立して なくすならと 民族自決の立場から 運動をしている さらに 琉球共和社会 共和制ではない 大統領 外から えらべばよい あえて ひめゆり一凛 そういう旗に 白は無抵抗の 革命の旗である という 考え方を しておられる

 

芥川の 文章に ありますが 共生を つくっていこうという 共鳴しながら 天応制反対 そういうものが 本当の物として 腹の底から 実っていくんではないかと 


共生 実現の 大きな 合言葉である 中江町民の 「民主の主の字を解剖すれば、王の頭に釘を打つ」この言葉をもちまして 終わりの言葉とかえさせていただきたいと 思います どうもありがとうございました





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