一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/1/3(月曜日)から今日まで。(12ー中半)





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1月6日(木)
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きょうは、ノーペン🖊デーだった為、通常のメール・チェックとレター書きはお休みしました(笑)。


夜は、一昨々年2019年8月30日の、森下伸也・関西大学人間健康学部教授の講演から、

『~日本の宗教は笑いの伝統世界一①天の岩戸開き神話②笑う聖像』の文字起こしをやりました🤫


資料※④に掲載しています。

日本人って「笑い」が大好きですよねぇと、一緒に原点回帰して笑って頂けたら最高です(笑)



今夜は、「Revo」さんのコース全8品のうちの8品目、「レモンシャーベット」の「写メ」をアテに「猫ちゃんたち」と晩酌しました🥛☕(笑)



「今日は10,099歩(7.6㎞、1時間30分)歩きました🙄」「先輩各氏の足元にも及ばないでごニャンスよ😹」








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2022年1月5日(水)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。


「あけましておめでとう。2日はご苦労様でした。3日はN先生夫妻とハルカスで和食コース。昨日は家で☐☐(※息子氏の名)と焼肉。今日から仕事。明日休みで、週末は連休です」


夜は、菟田野のお義母さん(83)に、ラブレター書き(同上、笑)。


おかあさん こんばんは😊今年も、奈良のきなこ雑煮をご馳走になりありがとうございました🐯🐯🐯とても美味しかったです🙇あの日は、帰って、留守番の息子氏と晩ごはんに、「おばあちゃんの水菜のせ回鍋肉」と餃子を作って食べました💪息子氏はサラダ水菜も「うんまい」と言ってモリモリ食べてました😋さて、きょうからお正月休みも明け、正月ボケが抜けるかちょっと心配ですね...。でも、常にボケてるから、見た目あんまり変わらないか?😉ぼちぼちいきます😄それでは、おやすみなさい😪💤
追伸)息子氏は、今年は11日まで休みなのでもうしばらく大阪でのんびりしています🐯



それが済むと、要事前申込のウェビナー1つに参加しました

熊谷晋一郎さんが 司会兼講師の シンポジウムでした。



私と同年齢の ある精神科医さんが、時々ブログで紹介されていました…。 


誰しも、人に言えない、分かち合えないような困難を抱えているけれども、その極限におられる人々としての、脳性まひの当事者でもある医師・トップアスリート・宇宙飛行士・先端アートデザイナー・発達障害の当事者でもある研究者のお話です…。

ご興味のある方は、お時間あられる時にでも、ぜひ♪(笑)



資料※③に、講演と質疑応答の全文起こしがあります。



今夜は、「Revo」さんのコース全8品のうちの7品目、「せこがにのリゾット」の「写メ」をアテに「猫ちゃんたち」と晩酌しました🥛🍵(笑)


















~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


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資料のイメージ
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※ウェビナー(Webinar)とは、ご存知のようにコロナ禍、私たちの日常に、新たに加わった
 "ウェブ(Web)" 開催の "セミナー(Seminar)" のことです。
※画像が大きくて申し訳ありません🙇‍♀️



~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


※③


2022年1月5日(水) 
当事者研究シンポジウム「ライフコースを通じたインクルージョン」ー先端科学技術研究センター

挨拶 神崎 亮平(東京大学先端科学技術研究センター 所長)
講演
ライフコースを通じたインクルージョン
    熊谷 晋一郎(東京大学先端科学技術研究センター 准教授)

宇宙飛行士のライフコース:宇宙体験がもたらすもの、そして日常への帰還
    野口 聡一(東京大学先端科学技術研究センター 特任教授)
 提題1
トップアスリートのライフコース(仮)
    杉山 祥子(女子バレーボール元オリンピック日本代表)
宇宙飛行士のライフコース(仮)
    山崎 直子(元JAXA宇宙飛行士)
提題2
機能的で快適なインクルーシブ狭小空間デザイン
    伊藤 節(東京大学先端科学技術研究センター 特任教授)
科学教育のインクルーシブデザイン
    並木 重宏(東京大学先端科学技術研究センター 准教授)
マイノリティが辿るわかちあいと当事者研究の意義
    綾屋 紗月(東京大学先端科学技術研究センター 特任講師)

パネルディスカッション
    パネリスト:講演者6名/司会:熊谷 晋一郎




※熊谷 晋一郎さんの講演の全文起こし



私自身はスポーツっていうのは全く縁藤い人生を


あるんできたんですけれども、そういう意味では全く手の


届かない


存在なんですが、お話を聞いてみると障害を持つ私達と地続きな共感できる様々な困難を抱えているということに気づかされました。


そんな話を、これから私も20分程度でご紹介させていただこうと思っております。


私から話題提供は、本シンポジウムのタイトルと同じタイトルでのお話になります。「ライフコースを通じたインクルージョン」というテーマでお話をさせていただきます。


簡単な自己紹介をいたしますと、私自身も身体障害、脳性麻痺という身体障害を持っておりまして、電動車いすに乗って生活をしています。


トイレに行くこと、お風呂に入ること、着替えをすること、日常生活のありとあらゆる動作を1人では行えないので、生活をするときも仕事をするときも、傍らにほぼ24時間、私をサポートしてくれる介助者が必要です。


これまで小児科医として仕事をしてまいりまして2009年から、こちら先端研に着任をいたしまして、そして2015年に当事者研究分野というものを開設いたしました。


専門というとあれですけれども、当事者研究の他に小児科学、特に発達障害などを専門にしております。


実は今日のライフコースという問題を考え始めたきっかけは皆さんも記憶に新しいかもしれません、2016年に起きた痛ましい事件がきっかけでした。


相模原の施設の中でですね、障害を持つ仲間たちが命を奪われるという本当にショッキングな事件が起きました。


そのときに犯人は、能力によって人の価値は決まるという、いわゆる優生思想という考え方を堂々と動機として述べたわけですね。



支援をすることで 最大限の能力を発揮できる社会を実現すべきだという主張が左側です。


これ自体が とてもたいせつな主張ですね。


しかし これだけでは足りません。向かって右側、能力があるかないかが


その価値というものは 能力の有無で決まるわけではないんだということも 同時に主張したわけです。


左側ばかりが強調され***


能力があるのは、


それは大事なんだけれども、



みんな誰でも歳をとります。年をとればいろんなことができなくなります。能力が失われていきます。


能力が失われれていきます。いつか私達は、


そのときに一緒に私達の


呼吸が不安定な。


年を取ってもなおインクルードされる社会というものを考える。


そしてこの二つの葛藤の中を生きているのは障害者だけではありません。トップアスリートと呼ばれる人たちは、


勝たない自分に価値はないんだろうかというプレッシャーの中でいわば、ある種の優生思想の中で苦しんでいるその最前線にいる人たちでもあるかもしれません。


そういう意味で、私達は互いに学び合えるのではないかということでトップアスリート、そして宇宙飛行士という高いパフォーマンス、高い能力が求められるがゆえに、優生思想に絡みとられかねない、そういう状況に置かれている人々


と共に学び合える、そういう研究会をですね、スタートをしてきたわけです。これが約3年前の出来事でした。


この研究会の目的というのは、アスリート当事者の視点からですね、成績向上だけがとかく目指される能力が高いことは重用されるけれども、人生全体の現役引退後も人生が長く続くわけです。


その人生全体のウェルビーイングを考えながら、アスリート応援してくれるような社会をどうやったら作れるだろう


そして負けること、あるいは弱いことは恥ずかしいこととみなしてしまうが故に追い詰められたときに周りに助けてほしいと言いづらい環境、これはトップアスリートの方だけではないかもしれません。多くの私達の社会、もしかしたら大学もそういう場になってるかもしれませんね


そういうスティグマ、つまり負けることは烙印を押されることだという考え方をどうやったら取り除けるんだろう。


とはいえ、成績向上や能力発揮という左側の方のトピックも譲るわけにはいかない。


そういうせめぎ合いの中で生きているトップアスリートから社会全体が学べることがあるんじゃないかというふうな問題意識を持っております。


私達が採用したアプローチというのは、当事者研究と呼ばれるアプローチです。


これは簡単に言えば、当事者が研究する、そういう研究領域のことです。


ここでいう当事者というのは、狭く捉えれば障害や病気を持った人々という意味ですが、私達はもう少し広く捉えて、様々な人に言えない、分かち合えないような困難を抱えた人々
というふうに捉えています。


歴史的なルーツをたどると、精神障害を抱えた人々が、仲間の力を借りながら、自分のことを自分自身がよりよく知るための研究をしていこうという実践として誕生いたしましたが、その後障害を持つ人だけではなく、様々な領域に


広がっていきました。


そして今、新しいチャレンジとしてトップアスリートの方々や宇宙飛行士といった、また別の理由で自分たちの経験をオープンにしがたい、あるいは言葉が見つからない、そういう苦しさを生きている、


喜びもあるかもしれませんね、喜びや苦しさの経験をたくさん持っている人たちの当事者研究に今チャレンジをし始めたところです。


さて当事者研究では、自分自身のことを探求するわけですけれども、そもそもちょっとここは抽象度の高いスライドですが、自分って何だろうというふうなことがトピックになるわけですね。


当事者研究では自分というものを二つに分解して整理をします。


一つは私だけが持っているこの体ですね、脳みそも含みますけれども、身体です。


体が全く同じ人っていうのは、地球上どこを探してもいませんよね。双子でさえも、体は違うと思います。


アイデンティティその1は体です。


もう一つがですね、物語、歴史です。


生まれてから物心つき、現在に至るまでの歴史を私達は歩んでいます。


それらを私達は一つのストーリーとして常に頭の中で把握しているわけです。


この体と物語の二つを整理整頓していく。


1人でその作業をやるんじゃなくって、似たような体、あるいは似たような経験をしている人と一緒に自分自身の体と物語を整理整頓し、共有していく、こういう実践として当事者研究を広く定義することができます。


さて、残り時間でですね、私自身の当事者研究を紹介してみようと思います。


今日私の当事者研究を紹介する中でですねこれからたくさんのいろいろな経験をなさっている方々のですね当事者研究を聞くことができると思うんですが不思議とですね、共通点がいくつも見つかるんじゃないかなというふうに思っているところです。


そういうことを思いながら、私自身の当事者研究を残り時間で紹介します。


自分の人生を物語として振り返ったときに、四つぐらいの時期があったかなというふうに思っています。


1番目として、自分を置き去りにしていた時代というものがあったなと思い出します。


これは私が3歳ぐらいの頃の写真です。


何をしている写真かというと、リハビリをしている写真ですね。


私は生まれつき障害を持っていたので、親は心配してですね、少しでも健常な子供に近づけさせてあげようということで、1日5時間6時間リハビリをしていました。


左側は立つ練習、右側は膝立ちをしてる練習をしている姿ですが


子供心にですね、生まれつきこの体なので文句はないわけですね。私の場合は、自分自身の体に。


だけれども親としては、健常の体に近づけてあげたい、その軋轢の中で、何でこんな痛い思いするのかなというふうに、不思議に思っていたことを思い出します。


当時の私はどんな状態だったかっていうと、向かって左が私だけの体、向かって右側が、周囲が私に求める物語。すなわち、こう生きるべしといった物語だとすると、


周囲の物語に合わせるように、真ん中に書いたのは無知ですね、体を調教するというとちょっと言葉が強いかもしれませんが物語に体を従わせる、そういう時代を生きていたなというふうに思いだします。


ちょっと見づらい図で恐縮なんですが、こういうふうに自分の体にムチを振るってしまうならいぐせというのは、多くの障害者が実は残念なことに持ってしまっています。私もそうだと思います。今でも抜けない気がします。


体をついつい酷使してしまうといいますか、


その結果の一つがですね、私のように40歳過ぎてくると、それこそライフコースですね。高血圧が心配になったり糖尿病が心配になったりするわけです。身体障害者にも高齢化というものは訪れます。

そのときについつい自分の体を無視してしまう、軽視してしまうというふうな傾向が身体障害者の中ではしばしば指摘されています。


私も耳が痛い。


なかなか自分の体の不調を調べよう、対処しようという気になれない、自分の体に価値を感じられない、そういった混沌の中で体を尊重しないメンタリティっていうものが小さい頃から育まれてしまったなというふうに思います


それをひっくり返さなきゃいけない、これは当事者研究を担うものとしても 体を大切にするっていうことは 今私自身の課題でもあります。


さて次の段階が、自分に合った暮らし方を探求した時期でした。


その背中を押したのは、1980年前後に起きた世界的な障害についての考え方の大きなパラダイムチェンジでした。


70年代まで障害というのは、本人の体の中に宿るもの、宿る特徴というふうにみなされていました。


今日、このような障害の捉え方は障害の医学モデルと呼ばれています。


それに対して80年代は、


皮膚の外側、環境の側に障害は宿る、すなわち、エレベーターを設置していない建物こそが障害者である


あるいは整っていないインクルーシブではない社会環境や制度の方が障害を持っている。


障害物競走の障害のイメージですね。そんなふうに障害の捉え方がガラリと変わったのが80年代でした。


これでリハビリから解放される。


あまり効果のないリハビリが70年代までは、はびこっていたわけですけれども、そこから抜け出せるというふうに思ったのを思い出します。


そうですね、先ほどのイラストを使って言うならば、


私の体の方を尊重しよう、ムチを振るうんではなくて、私の体に合った私だけの人生の物語を書き進めていこう、体にペンを持たせよう、そして体に物語を書いてもらおう、そういうふうに時代が変わっていったわけですね。


そのようにして私は1人暮らしを始めました。


一人暮らしといっても 1人で暮らすという意味ではなくて 親以外のたくさんの支援者に支えられながら、自分らしい暮らしを探求するということです。


例えば左下に写っているのは私がコップで水を飲んでるときの写真ですが、こんなふうなコップの持ち方をして言うと、親がそれを見つけるとですね、18歳まででしたら、親と一緒に住んでいましたので、親がパーンと私の手を叩いていました。そんな持ち方をせずに健常者ぽく、コップを持ちなさいというふうに 言ってくるわけですね。


そうなのかというふうに 水もおちおち飲んでられないというふうな 不自由な暮らしをしていたんですが、ようやく息が吸える、親の監視のない世界で、自分の体に合った生き方、コップの持ち方が許される、

これが私にとって初めて背中に羽が生えたような自由を感じた瞬間でした。




同じような変化は 働き方に関しても言えます。

自分に合った働き方を 探求しました。


私は先ほども言いましたように小児科医として仕事をしておりましたけれども、

今でも細々と続けてはいるんですが、

小児科医として障害を持った先輩、ロールモデルはなかなかいませんでした。


なので1年目はかなり苦労いたしました。

自分は仕事ができるんだろうかっていうふうに試行錯誤をしておりましたが、


最終的には、この動画でお示ししているように 周囲とのチームワークを組んでですね、

自分なりのスタイルで仕事ができるようになっていきました。


これまでいろいろな病院で仕事をしてきましたけれども自分が、自分のこの生まれ


持っているこの体を、この体のままでうまく仕事ができる病院と、なかなかうまく仕事ができない病院があったなというふうに思いだします。


その違いは一体何だったんだろうっていうことを 私はその後もいろいろと自分で振り返る、先行研究などを調べながら振り返る時期が続きました。


そして現時点で考えているのは、


想定外や失敗というのはどんな職場でも陥ることですよね


そのときに右上の方にいく組織なのか、右下の方にいく組織なのか。


右下の方に行く組織なら私は仕事ができる、右上の方にいく組織だと仕事ができない、こういう違いがあるんじゃないかっていうふうに思い当たりました。

少し説明しますと、右上というのは、


何か失敗が起きたときにですね、犯人は誰だというふうにまず探す。


そしてお前か!お前も罰則を与えてやろう、排除してやろう、こういうふうに個人モデル、医学モデルで失敗を解釈する、そういう組織が右上です。


その結果 組織自体は変わろうとしない。


トカゲの尻尾切りだけをして、組織はそのまま現状維持をする。そうすればメンバーが変わってもその組織は同じ失敗をしますよね。


こういう状態では組織は学習を停止してしまう。そして大きな失敗が訪れるということが言われています。


そうではなくて右下ですね。


失敗が起きたときに犯人探しはしない。


とりあえずみんな集合する。


そして、どういうメカニズムで失敗が起きたのかを属人化せずに、人を原因に置かずに、メカニズムでシステムで考える、


それをみんなで考える。こういった文化が右下の文化になります。


いわば責任と能力の社会モデルと言い換えられるかも知れません。


こういう文化のことを専門用語では Just Culture、公正な文化というふうに翻訳することもありますが、Just Cultureと言われていますけれども ああそうか、私が働ける職場っていうのは、Just Cultureが存在してる職場だったんだな


というふうなことを今考えているところです。


私は今、次のチャレンジとして当事者研究を職場に導入することで、このJust Cultureが育つんじゃないかという仮説をおいて検証を始めているところです。


驚いたことは、先ほど紹介した吉田選手はですね 全く同じことを 自分たちロコソラーレは採用してきたと


いうふうに教えてくれたことです。


右下に責めない文化というふうに書いてありますが、失敗、スポーツの世界でも失敗が起きるわけです そのときに誰かを責める文化ではなく みんなで考える文化をロコソラーレは大事にしてきた、実際に 明示的に 吉田選手は 当事者研究を


活用していらっしゃるわけですけれども、そういうことを教えていただいて、繋がっているんだなというふうに思ったのを覚えています。


最後ですねキャリアトランジションの話をしたいと思います。


再び私自身の話になりますが、30歳を過ぎた頃、突然首に激痛が走りました。


なんてことだ、ようやく小児科医としての仕事に慣れてきた頃だったのに、この痛みのせいで仕事が続けられなくなるなんて、悔しい、嫌だというふうに思いました。


そしてドクターショッピングをして痛みの原因を調べてほしい、取り除いてほしいというふうに、悪戦苦闘をいたしました。


ただ、どの病院に行っても原因がいまいちよくわからない。


痛いのはわかるけどそれほど悪くないんだけどねというふうに、ぱっとしない説明ばかりがなされる。


そこで、もうしょうがない、自分自身で痛みの研究をするほかないというふうに思いまして、先行研究を探したり当事者研究をしたりしました。


その結果、トラウマと体の痛みが 密接な関係にあるということに気づかされました。


トラウマというのは、簡単に言えば、体と物語の喧嘩状態ですね。


自分の体が 高齢化によって 変化します。


そしたら 若い頃に思い描いていた人生の物語と 合わなくなります。


でも 物語はアップデートすることが何らかの事情でできない、諦めきれないといった場合には、この二つのアイデンティティの構成要素が、頂上決戦、対決、けんかをしてしまうわけです。


それを一部の人は痛みとして経験することがあるのだということを研究によって知ることになりました。


私は先行研究や仲間の支えによって、そうか、


この痛みさえなければ 従来の物語を継続できるはずというふうに 思い込んでいたけれども、その考え方自体が 痛みを温存させてしまっていたんだ。


そうではなく、この痛みは 神からの恵みじゃないですけれども、


あなたの従来持っていた物語を修正する必要があるんじゃないの?


人生の次のチャプターを書き始める必要があるんじゃないの?っていうことを教えてくれている重要なシグナルなんだということに思い至ったわけです。


今は私だけの物語をですね、


同じような経験をしてきた仲間と一緒に 次のチャプターを書き始めるということが、この痛みに対する対処なんだなということを知ったわけです。


同じようなテーマは、おそらく多くのアスリートや、広くどんな仕事をしている人にも訪れることだと思います。昔のように体が動かない、昔のように頭が動かない、そういった経験は 誰の身にも訪れるでしょう。


そのときに今 体と物語が対決してるんだな、この苦しみは。


物語の方をアップデートできるだろうか。


体と物語が和解できるだろうか、そういうふうなことで、次のチャプター2、人生のチャプターが始まるというふうなことをこのとき、学ばせていただきました。


私自身のですね、当事者研究をちょっと皆さんの前で披露させていただきましたけれども、何か皆さんの中でも、重なる部分、ヒントになる部分があれば幸いです。以上で私の発表を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。






※質疑応答の部分起こし


(杉山)

私は先ほどお話しさせていただいたんですが、


やはりオリンピックに出場できなかったという、あの試合があったから、あそこがスタートだったから、ずっと


いろんな思いを持って、


15年間という現役生活を送れたのかなと思います。


もしあの経験がなく、順風満帆なバレーボール人生を送っていたら、もっと早く満足して引退を迎えていたのではないかと振り返ると感じます。


でもやはりあの経験は、


引退後にしか振り返られなかったぐらい 自分の中では大きな経験だったので、


やはり これからの選手たちには 絶対経験して欲しくないという思いが一番強くあります。


(熊谷)貴重なお話ありがとうございました。


続きまして、山崎先生はいかがでしょうか。


(山崎)


いろいろありますけれども、


おそらく、宇宙から地球に戻ったそのときかなと思うんですね。


宇宙に行くまでは、宇宙がある意味 特別な憧れの場所だと 私もずっと思っていましたが、


いざ宇宙から地球を見たり、地球に戻ると、この地球の方が特別のような、宇宙が真っ暗に広がっている中で、地球の方が輝いていて、しかも、緑の香りや自然のそよ風があったり、


そういう考え方を180度変えてもらった瞬間かなと思っています。


あと私達は、野口さんもそうですけど、


一緒に宇宙に行くときに、


遺書のような形でまとめるんですね。万が一にそなえて、そのときに、一旦自分で整理をするんです。気持ちの整理とかいろんな整理をまとめて、自分がいなくなった後も回るようにということをひたすら考えて、それを経た後で、


戻ってくると、残りの人生が生かされるような感覚になるのが 強烈なターニングポイントだったと思います。


(熊谷)ありがとうございます 本当に存じ上げないことでした。ありがとうございます。続いて、伊藤先生はいかがでしょうか。


(伊藤)ありがとうございます。


ターニングポイントはいろいろあります。まずご紹介したように、学生時代から


トップアスリートの人たちが周りにいて、そういう人たちに


自分たちは今が花だと 聞いていたんですが、我々芸術系というのは、花が咲くまでに ものすごく時間がかかります。


それで、自分はもう、無名というか、


何でもない存在で、


とにかくイタリアに行ってみようと。そうすることによって、


いろいろなことが体験できるんじゃないかというところが一つのターニングポイントで、そこから一つの作品を出すんですね。


今はもう


1,000個以上の作品というか商品というか、


いろいろなものを作っていますが、


そこに行くまでに


打率で言うと1割ぐらい、


本当にものすごくいろんな実験を重ねて一つのものが出てくるわけなので、


そういうことをやって、やりつくしてはいませんが、やってきて、


そして、


この年で、こういう年になってきたときに、


もっと社会に貢献する、


デザイナーとして、


競争しているというよりも、


もっと社会に貢献できる、本来のデザインの本質をやってみたいというのが 今回こうやって先端研に来たと言いますか、


神崎先生、神崎所長をはじめ いろいろな素晴らしい研究者の方と出会えて、


これが私にとっては、異分野の人たち、今まで自分の分野の背中を追いかけて、それで自分もあるとこまで行き着いているわけですが、


そういうところから、異分野の人たちと交わることによって、


素晴らしい


違った展開ができるんじゃないかというのが 今のポイントになっています。あとは教育ですね。


後輩を育てていきたいという思いも 非常にあります。


(熊谷)伊藤先生ありがとうございます。


続いて並木先生はいかがでしょうか。 


(並木)


私のターニングポイントは間違いなく病気をしたことかなと思います。


研究室に入ってずっと実験をしてきて、


強制的に実験をできなくなっ


たことかな。


どうして科学者になったかをよくよく考えてみると、


昔、小学校の先生ですごく大好きな先生がいたんですが、その人に


並ちゃんは 科学者に向いてるんじゃないの。なみちゃんと言われてたんですが、


多分そこが始まりかな。


と思います。

ある意味、ターニングポイントでした。


以上です。


(熊谷)並木先生ありがとうございます。最後に 綾屋先生はいかがでしょうか。


(綾屋)


私は、


今から振り返れば、


生まれつきの身体的特徴、マイノリティー性があったと話してますが、


ずっと なんだかわからない混沌とした世界の中で、自分のことも 世界のこともわからない中に 閉じ込められ続けてきたという感じがあって、いつか これは悪いことが起きると思っていて、16歳の時に、


文字が読めなくなるのがやってきて、


それ以来、英語の文字が読めないということで、大学受験ができなかったということがあって、


それは最初に


ターニングポイントというか、


いよいよ壊れたという感じのときでした。それなので、生まれつきの障害というような経験と、


中途の障害という感覚と 両方経験しているんじゃないかと思います。


それが、


30を超えたぐらいのときに、自分の似ている、自分とよく似ていることを書いている本に、当事者の本に出会って、


これはいよいよ自分なんじゃないかと思って。


その診断を取りに行ったり、


今まで付き合ってきた障害のある仲間たちとまた一緒に


再会したり、


そういうことになったときには、


自分の世界は、


ここだったんだということで、ようやく繋がりを感じられたということがありました。


それは、親指姫の話に似ているなと思っているんですけど。


ここが自分の世界だったんだということに


そこに繋がったのが、もう一つの転機だったかなと思います。


(熊谷)ありがとうございます。本当にターニングポイントで 出会うべくして出会うというような、


大切な存在というのは、皆さんお1人ずつ それぞれ思い浮かぶ方がいらっしゃるんじゃないかと思いますし、


今日のこの場も もしかすると、


皆さんある種のターニングポイントでこのテーブルについてるのかなと感じるようなコメントをいただきました。


それでは、ここからは登壇された先生がた同士の自由な質疑を


お願いできればと思います。


どなたかコメントやご質問されたい方がいらっしゃいますでしょうか。いかがでしょうか、自由にどうぞ。お願いします。


(野口)
今日聞いていた中で、杉山さんの


今 お話ありましたが、シドニーの話はすごくインパクトがあったのでよく覚えているんですけど。


ある意味、実業団に入って、これからだというので、若手の


ホープというか、


若手のホープというか、期待されて、


まだ、プレッシャーのないときの 最初の試合の敗戦だったわけですね。チームとしては非常に痛いけれども、


それほど、


ある意味、


新人で初めての試合だし、


経験だみたいな形で流すこともできたと思うんだけれども。

22年前ですよね、結局ね。ですから、22年前のことなのに昨日のことのように、


凄みのある喋りだったので、


すごくインパクトがあったんだなとわかったんですけど。


それは悔しさですか、それとも痛みですか。


それとも、


歯がゆさみたいなそういう感情だったんですか。


(杉山)
そうですね。


本当に野口さんのおっしゃる通り、私は若手で一番


初めての国際大会だったので、


ある意味責任はないというか。


使った監督の責任というところではあるんですが、そこに立っていたときの経験なんですかね。


初めてのものすごいプレッシャーのかかるところで、


私もレギュラーとしてコートに立って、経験のあるなしに関わらず、そのときの代表の


6人の中の1人で、コートに立っていて、


そういう結果が出たということで、


やはり責任ですね、責任をすごく感じました。


たぶん周りからしたら、


そういうふうに言ってくださるところもあると思うんですけれども、私本人としては、


やはりそこに立っていた1人の選手として、


この責任をしっかり果たしたいというか


これからだというだけに、


次の


取り戻せない
選手もその中にはいたわけで、ベテランの選手も そのシドニーにかけて4年間積み上げてきた先輩がたもたくさんいる中で、私はこれからという中での経験だったので、それを取り戻す責任があるというか


取り戻したい、自分の中でそういうふうに感じていました。


(野口)そうすると、


4年後に一応、


出場権を取ったので


ある意味そこで消化できたということなんですかね。


(杉山)


そうですね。


4年後…、


ほんとにそのことだけを


目標にして


きた部分があったので、


ある意味 その部分の失敗を取り戻せたという気持ちにはなりました。


(野口)


今週 箱根駅伝もありました。駅伝でも 箱根の借りは箱根でしか返せないと おっしゃっていた監督さんがいました。


場面は違いますが、熊谷先生と一緒にやった、アスリートの研究会の


出場なのかみたいなところ、若干かぶります。


アスリートの方はそういう

ギリギリのところで、


今 責任という言葉が、これは本当に新人だし、僕だったら、


経験でいいよと


流してあげたくなるけれども、


責任という言葉でそれを22年間持ってらっしゃったというのは


すごい
トップアスリートの世界の厳しさというか、重さだなと改めて思いました。


(熊谷)戦友という言葉が 例えばなしではないくらい。サバイバルギルトというか


生き残った自分に対する


責任の重さですとか、


そういったことを、アスリートの方が語ってくださる。


ほんとに知らないことだらけでしたが、


そういう世界に生きてらっしゃるんだなということをすごく


今日のお話からも、


再認識致しました。


本当に貴重なお話ありがとうございました。


その他はいかがでしょうか、他の皆さんからコメントがありますか。


どうでしょうか。


山崎先生いかがですか。何かコメントありますか。


(山崎)ありがとうございます。


並木先生の発表の中でもこうした


手話の世界においても どんどんと 科学用語が作られているというお話もありましたが、


今そうした状況で 日本は世界の中でどれぐらい手話の言葉が進んでいるんですか。


(並木)


ありがとうございます。


科学教育のインクルージョン、ごめんなさい、しっかりお答えできないんですけど、インクルージョンという意味では日本より
.。
進んでいる国がたくさんあります。


手話の現状について


私はそこまで 科学に関してはわかってるんですけど。熊谷研究室には


もっと詳しい方もいらっしゃると思うんですけど。


どうでしょうか。牧野さんとか。


(熊谷)熊谷研究室 手話のエキスパートというと 牧野さんかもしれない。


(並木)手話の科学教育ですか。


(牧野)ありがとうございます。


(並木)無理なお願いをしてすみません。


(牧野)こんにちは、ご質問ありがとうございます。


科学的な手話についてということですけれど 私の知っている範囲でお答えさせていただきます。筑波技術大学というところで 話し合いが進んでいる途中だと伺っています。まだ東京大学の方でも


何か技大の方に聞いて、手話が確定しているような言葉があれば それをまた大学の中でも、日本の中で、大学の中で広めていくことができればいいなと考えているところはあります。そのような状況になります。


(並木)先端研で、


熊谷先生が進めているプロジェクトともいろんな同じ関心を持つ方と全国の方と一緒に


取り組んでいけたらいいなと思っています。


(山崎)どうもありがとうございます。


やっぱり そうした言葉があるということが きちんと物事をつかんで、そうした言葉があってそれを教える方がいてというのが とても大切だと思って 今ますます期待したいと思います。ありがとうございます


(熊谷)ありがとうございます。言葉があるかないかで 本当に経験があるかないかが変わってしまうというか。


確かに 経験したのに それを認めてもらえないという状況に 容易に置かれてしまうという話がありましたが、ちょうど綾屋先生の言及がありましたが、綾屋先生から何か質問やコメントがありますか。


(綾屋)


障害とか


病気とかを


経てきた


仲間たちは、


本当に


人生全部 うまくいかないという気持ちとか、仲間と繋がってやっと


生き延びられているというような


ギリギリのところを生きて


きている人たちが、


多いと思っていて、障害というふうにつかなくても そういうふうに潜在的に大変な思いをしているとここととか、その家庭の問題とか、


健康の問題とか、いろいろな


マイノリティ性を抱えて


大変な思いをしている人たちが


いるんですけれども、


一方で、


そういう


なんだろう、宇宙とかオリンピックとか。


芸術とかそういうところの人たちも


一見すごくトップのところに、


華々しい感じがするかもしれないけど


やっぱりトップに行くことの


大変な命を削る思いみたいなこととか、それを他者と共有できなかったりとか、あと勝負の世界とか、


生き死にが関わっている


からこそ、弱みを出しちゃいけない規範の中にいるとかそういうようなこととかも


あるんじゃないかなというふうに想像して、


そういうところの層


だったら実は繋がれるんじゃないか、

そういうふうなギリギリのところで戦うというところで繋がれるんじゃないかというふうに、


思うんですけれども、


そういうふうな


エピソードとかは、


嫌じゃなければ 聞けたら嬉しいなと思いました。今ちょっとずつお話してくださったりしたのと、あと、


つらい話だったら暴くわけにいかないので無理やり聞くことはできないんですけれど、


そういうことがもし聞けたら


いいなと思いました。


(熊谷)ありがとうございます。伊藤先生、いかがでしょうか。突然ふってしまって、身を切るような思いを


ご無理でなければ教えてくださいという。


(伊藤)やっぱり失敗をものすごく重ねてるんですね。一見、
.
なんていうんですか、アイディアを考えて、それを実現していく 実現するためには、自分1人ではできないわけですから、ちゃんとメーカーとかクライアント、あるいはお金を出資してくれる人がいなければ できない話ですが、そういうところに依頼されて
.
いろいろな実験を重ねる中で ものすごくたくさん失敗しているんです。そういうものはなかなか表に出てこないので、


事務所に来ていただくと、失敗の数々が痕跡として残ってますが、そういう経験からしか


培えないものというのは、あるんだろうなと思うんです。


作ったものが批判されたりとか、


使いにくいものとか、こんな空間とか、そういう


というわけではないんですが、そういうこともありますし、いろんな意味で我々は全ての人ですけど、競争社会に生きるしかない。そういう中にいて、自分は自分だけの文脈を積み重ねていってそれで


自分のアイデンティティーを形成していく。その中で、


ある意味 社会的に有名になる人もいればそうでない人もいると思うんですけど、そういうことをずっとやってきて、気がついたときに、本当に


同じソファばっかり作っていってどうするんだ、こんなに売れるわけないだろうって、

そういうふうに気付くわけですね。本当に


一つのものばかりではないんですけど、いろいろメーカーのために ものを開発したりしていく過程には やっぱり そういう商業主義的なところがすごくあるわけですけど、気がついてみるともっと


スキルを他に使うべきだろうと、他の人と協力してやっていくべきだろうと気付かされたという、

そういうことがあって今ここにというか、


籍を置かせていただいているわけです。そういう


本当に失敗は、


数多く。


本当に打率は1割ですから、


9割ぐらい失敗を重ねて、いろんな成果を出してきているのがありますので、我々アスリートと違って、


なんといいますか、最初から華々しくデビューしているわけではないわけですし、

そういう意味でも、人生の終わり、本当に終わりがあるのか、


野口先生のお話にもありましたが、何事にも終わりがある。


じゃあ、我々の終わりって何なんだろうというふうに思いますけど、


その終わりというのが 自分に年を重ねてくると、
ここの年齢では こういうことをやっていきたいというのは 
だんだん変わってくるのかなということかと 思っています。


(熊谷)ありがとうございます。

(野口)伊藤先生のもすごくいいお話だと思います 綾屋さんからのお話。


今日改めてお伺いして、綾屋さんの
.
私は何回もお聞きしましたが、すごく当事者研究をしっかりまとめていただいて、
.
私のことは私にもわからないのが当事者研究だって、これこそ、


ここにいる意味だなと思いながら 話を伺いました。


まさに身を切るようなという意味で 私はこの話は普段あまりしないんですが、山崎さんが遺書の話をしたので、


私にとって この宇宙飛行士を続けてきた最大の理由は コロンビア事故なんです。

2003年に仲間を7名失って、


埋めようのない喪失という言葉を 私自身で最初に感じたのは コロンビア事故なんですね。


地球に戻ってくる途中で7名失ってしまい、それは、私はそのすぐ後に、


宇宙に行くはずで、新人で宇宙に行く直前で、そういう意味では 杉山さんの話ともかぶりますが、私もコロンビア事故がなかったら、なんとなく1回宇宙に行って良かったと言って、
.
辞めていたかもしれないなと何度も思いますが、


仲間を実際に失ってしまったというのがあるので 山崎さんが言ったように、


遺書にすごみがある。実際に、


死んだ例があるので、それが自分の家族に起きたらどうするかという思いで 我々は書きますし、


私が地球から 宇宙から地球に帰還するということに ここまでこだわっているのも、


帰還できなかった7名の


仲間たちがいるので、


そういう意味で、


いまだに付きまとっている


身を切るような体験という意味で、やはりコロンビア号の事故という7名の宇宙飛行士の犠牲。私にとってそこはあまり


触れたくないわけではないんだけど 触れる必要がないぐらいのインパクトがあるので、普段は


今日のようなプレゼンでも触れないんですけど、大きな意味があるイベントだなと改めて思います。


(熊谷)ありがとうございます。先ほどの、


杉山さんのご発表とも繋がるお話かなと思いながら伺ったんですが、


私達が尊敬している依存症の当事者活動を長年やっている


上岡 陽江さんという方に、なぜそんな大変な仕事をこんなに長く、


本当に大変たいへんな仕事ですけど 続けているんですかと聞いたら、
死んだ仲間が見ているからと 一言ひとことおっしゃったわけです
助けられなかった仲間が、
ずっと私達を見ているから続けているんだと。


あるやましさと表現されましたが、


その感覚こそが私を突き動かしているとおっしゃったのを 非常に思い出しました。

ありがとうございました。






~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


※④


2019年8月30日
講演:日本人はどう笑ってきたのか~宗教との関りで考える~より

「日本の宗教は笑いの伝統世界一である」ことについて

①天の岩戸開き神話(日本最初の笑い)②笑う聖像③宗教からお笑いへ④笑う禅僧⑤笑い祭り
講師:森下伸也・関西大学人間健康学部教授、日本笑い学会会長 



それでは、#日本の宗教は笑いの伝統世界一である ことについて、

以下の5点のうちから、ラストの①、②についてお話しましょう。


①天の岩戸開き神話(日本最初の笑い)
②笑う聖像

③宗教からお笑いへ
④笑う禅僧
⑤笑い祭り



①天の岩戸開き神話(日本最初の笑い)


日本最古の歴史書、『古事記』では、シャーマンであり 笑い芸人である アメノウズメノミコトの、

ストリップダンスを見た神々の笑いで、太陽の神アマテラスオオミカミを 引っ張り出そうとした。


これが 一番最初の 日本の本の笑いですわ。




「咲ひき」、花が咲くと書いて「わらひき」です。
ほんとは 全部 漢字なんですよ。

それを、江戸時代の人、三重県の本居宣長が、一番最初に 読み下し文に 直した。


マァ、原文を全部読んで 解かったことにしましょ♡




②笑う聖像


昔、日本は 朝鮮と 仲が良かったんですよ


笑っている仏像は、シルクロードを トコトコ歩いて 1600年前に 日本に入ってきた
ギリシャの神像のアルカイック・スマイルが ヘレニズム文化と ガンダーラの仏像と

シルクロードの敦煌・雲崗・竜門に伝わって入ってきた




笑っている仏像は、日本には よく馴染んでいます
でも、笑っている仏像は、よその国には 馴染まない


イスラム教は、偶像崇拝禁止ですから 仏像がない
アルカイダは、ガンダーラ仏を 壊してしまった
ユダヤ教は、モーゼ像自体がない


日本は、よく考えてみると珍しいんですよ




アルカイックスマイルは、シルクロードを越えて

日本の飛鳥大仏などに 繋がっていると 言われています


その後、しばらく 造らなくなり、 

江戸時代に再び、驚異的な量を 造るようになった


円空は 生涯に、木っ端仏など12万体 造った
わけわからん数字…


木喰は 三十三仏など 2千体 造った
質・量とも 世界一と言われる 



▼京都太秦、広隆寺の 弥勒菩薩 半跏思惟像(はんかしいぞう)
:国宝第1号の 1,400年前の仏さんの笑顔が そこにある


▼奈良県中宮寺の 木造菩薩半伽像
:これも 国宝(彫刻の部)第一号


▼法隆寺の 釈迦三尊像
:仏さんの 半分以上が 笑っている


▼愛知県正眼寺(しょうげんじ)の 誕生仏
:お釈迦さんが 右手上げて 左手下げて 笑っている



これら笑顔の 魅力的なこと

これら見たさに 何度も 寺に通ってきた私(森下伸也教授)が思うに

微笑仏の 新しい霊性の次元に到達した 超越的な神秘の微笑が 意味するものは
どこまでも やさしい 救済の慈悲
深く 澄み切った 悟達の浄福

世界仏像彫刻の 頂点をなす これら仏像の 微笑は
よその国には 馴染まない
日本には 馴染む








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