2022/3/7(月曜日)から今日まで。(第21週ー後半③)
2022年3月13日(日)
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きょうは、プライベート・デーにつき、通常の長文ブログはお休みです(笑)
荒山(こうぜん)公園 - 堺市の「呉服(クレハ)枝垂(シダレ)」です
多分 植え付け後 1~2年の若木です
「豊(ゆたか)さ」の一語に尽きました…
私はもうどのくらいになるんだろう
「豊か」という言葉が
自分の心の中から消えていたことを
思い出しました
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2022年3月12日(土)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。
「昨日は、☐☐の準備したキムチ鍋。ワクチン3回目予約は、次の週末の19-20日頃の夕方に☐☐と一緒に取っておきます。また連絡します。」(※☐☐:息子氏の名前)
夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(笑、同上で)。
それが済むと、要事前申込のウェビナー1つに参加しました。
白加賀(荒山(こうぜん)公園 - 堺市)
「梅干し食べて⤴🙄」「スッパマン⤴🙀ってゆうか、平成生まれに、ニャニやらすね~ん⤵😾」~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~
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資料のイメージ
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※ウェビナー(Webinar)とは、ご存知のようにコロナ禍、私たちの日常に、新たに加わった "ウェブ(Web)" 開催の "セミナー(Seminar)" のことです。
※画像が大きくて申し訳ありません🙇♀️
~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~
※⑭
2022年(令和4年)3月12日(土)
「原発事故から11年-子どもだった被害者が今語りはじめていること」
司 会:中島 宏治(大阪弁護士会災害復興支援委員会委員)
1 開会挨拶:中嶋 勝規 弁護士(大阪弁護士会副会長・近畿弁護士会連合会理事)
2 講 演
鴨下全生(まつき) さん :福島原発事故被害者
わ か な さん: 「わかな一五歳 中学生の瞳に映った3・11」の著者
高橋若菜 さん: 宇都宮大学国際学部教授
3 パネルディスカッション
<被害者>
鴨下全生(まつき)さん
わ か な さん
石塚愛紗 さん 避難者
佐藤遙佳 さん 避難者
高橋若菜 さん
<コーディネーター>白倉 典武 ・大阪弁護士会災害復興支援委員会委員長・近畿弁護士会連合会災害対策委員会委員長
4 閉会挨拶:青木 佳史 ・大阪弁護士会災害復興支援委員会副委員長・近畿弁護士会連合会災害対策委員会委員
※講演の全文起こし
わ か な さん
わたしの中学高校の 学校の先生 3人の先生の ご紹介したいと思います 転校の手続きを 自主避難のために お願いしたら 渋い顔を しておられるんですね そして いわゆる 安全・安心のことが書かれた本を 手渡されて 「これを読め」「残れ」と言われて わたしは いろいろそれまでに おかしいなと思って 自分で 調べたりしていたので 先生に 本を突き返して 職員室をさりました
二人目の先生は 部活の先生でしたけれども 「行くな」と言われて 「どうしてですか」と尋ねると 「お前が行くと 風評被害が 広まる」と言われました どうおもいます? 当時のわたし 26じゃなくて 15ですからね 大人同士でも こういうことは いっちゃいけないんじゃないですか? 当時 すでに おとなと こどもで こういう会話が あった どうおもいますか?
逃げる 側にすれば いのちをまもるこうどうを しようとしているのに 風評被害が 広がると そこで 言うのは おかしいですよ 当時 もちろん 正しい情報を 人々は 得られませんでした 私は 当時 そういうふうに 大人たちが 右往左往 しているのを見て ものすごく 傷つきました ショックを 受けました 当時 15歳 ああ おとなも わかんないことが あるんだ せいかいが わかんないんだ まようんだ と思いました
わが家も 原発離婚の 危機から 逃れられませんでした 「あなた どっちについてくの?」 ということも 言われました どっちとも 答えられませんでした
3人目の先生の話に 戻りますけれども 女性の 国語の先生でした 授業が始まるなり しばらく 黙っているんですよ どうしちゃったの? みんな 見ているんです そしたらせんせい 急に 泣き出しちゃって 合格発表の日ね すごく 線量が 高かったでしょ 私 校長先生に 「そこで 合格発表を やらないでください」って 言ったんです 「いや、やる」と 「どうしてですか?」「やらないと 俺の首が 飛ぶ」 と 言われたんです みんなのこと 被ばくさせちゃったよね…ごめんね… と言って 先生は泣きました
わたし なんで こんなことになったんだろうと 思いました みんな なんにも いいませんでした そういう 悲しいことが 福島で 起こっていました
高校の 3年間は 山形で くらしていますけれども つらかったことが ものすごく 多い 3年間でした 行った先の 先生から 心無い言葉を なげかけられたりして ものすごく 人間不信になって 死にたいなと 思いながらも いろんなことがあって いまこうして 2015年から 北海道で ひとりでくらして 今年で 7年
きょう みなさんに おつたえ したいことは いのちを たいせつにしてほしい ということです 命に 基づいて 自分の頭で 判断してほしい 緊急時に そのひとが あのひとが こう言ったを 頼りにしていたら あとで 後悔するかもしれない いのちを ぜったいに たいせつにしてほしいです
ウクライナ ロシア 核シェアリング これは なにがなんでも 絶対に ありえないと 私は 考えています いのちに もとづいて かんがえたら 人権に 基づいて 考えることになると 環境問題だと とらえる方たちも いらっしゃいますけれども
いのちに もとづいた こうどうが なぜか ゆるされない そのけっか きずつけられる ということは ほんらい あっては ならないことです でも それで この10ねんあまりが たってしまった この責任は だれが とるんでしょうか? まずは 原発って だめなんだねと おもっていただいきたいです
こんな 私でも いま いきてきてよかったと おもうんですね いのちを だいじに やってきたらみちは ひらけると おもうんです 次世代のために 核をつかっていこう というのから わたしたちは もう 離れなければいけないと 思います 紆余曲折については 去年出した 私の本を よかったら お読みください ありがとうございました
鴨下全生(まつき)さん(2020年1月24日東京高等裁判所第10民事部 意見陳述(要旨)を朗読)
この厳粛な法廷で、意見陳述の機会を与えてくださったことに、感謝いたします。僕は 17 歳。今も東京に避難しています。2011 年 3 月、大地震と大津波のあった翌朝に、8歳だった僕は、避難のために住み慣れた家を離れました。車には、両親とおじいちゃん、弟と僕の5人が乗り、ぎゅうぎゅうでした。家を出る時、母は僕と弟に「大事なものを3つだけ持って行っていいよ」と言いました。でも、弟は、車や電車のおもちゃを「4つ」抱え込んでどうしても離さないので、ぼくは自分の割り当ての3つ目を弟の電車にし、自分の物は2つだ
けにして車に乗りました。その2つとは、母が作ってくれたバッグと太鼓のバチです。これは今も大切にしています。当時の僕は、よく状況が呑み込めず、これはきっとよくある週末の旅行だと思っていました。おばあちゃんちに泊まって、日曜日には帰って来て、月曜日に
はまたいつもの登校班で小学校に行くんだと。そう思って福島の家を離れてから9年。今だに放射能汚染は、なくならず、僕は東京で高校生になりました。避難してからの日々は、福島にいた時とは全く違う、不安定な毎日でした。住居を転々とし、転校先でもいじめられ、僕も弟も吐いたり鼻血を出したり、よく体を壊しました。肉体的にも精神的にも苦しい事が多い日々でした。
僕は昨年の11月に来日したローマ教皇に、原発事故の被害者が、今、どんな理不尽な状況に置かれているのかを伝えてきました。今から、その時に伝えたことをお話しします。
僕は福島県いわき市に生まれました。8歳のときに原発事故が起きて、被曝を逃れるために東京に避難しました。でも、父は、母に僕らを託して、福島へ戻りました。父は高専の先生で、僕らの他にも守るべき生徒たちがいたからです。母は、僕と3歳の弟を連れて、慣れない場所を転々としながら避難を続けました。弟は、布団にもぐって泣きました。僕は避難先でいじめにも遭い、死にたいと思う程つらい日々が続きました。やがて父も、心と体がボロボロになり、仕事を辞めて東京へ来ました。それでも避難できた僕らは、まだ幸せなのだと思います。国は、避難住宅の提供さえも打ち切りました。僕は必死に残留しているけど、多くの人が、やむなく汚染した土地に戻っていきました。でも、広く東日本に降り注いだ放射性物質は、8年経った今も、放射線を放っています。汚染された大地や森が、元通りになるには、僕の寿命の、何倍もの歳月が必要です。だから、そこで生きていく僕たちに、大人達は、汚染も被曝も、これから起きる可能性のある被害も、隠さず伝える責任があると思います。嘘をついたまま、認めないまま、先に死なないで欲しいのです。原発は国策です。そのため原発を維持したい政府によって、賠償額や避難区域の線引きが決められ、被害者の間に分断が生じました。傷ついた人同士が、互いに隣人を憎み合うように、仕向けられてしまいました。僕たちの苦しみは、とても伝えきれません。だからどうか共に祈ってください。僕たちが互いの痛みに気付き、再び隣人を愛せるように。残酷な現実であっても、目を背けない勇気が与えられるように。力を持つ人たちに、悔い改めの勇気が与えられる様に。皆でこの被害を乗り越えていけるように。そして、僕らの未来から、被曝の脅威をなくすため、世界中の人が動き出せる様に、どうか共に祈って下さい。
このスピーチを終えた僕を、フランシスコ教皇は、優しく抱きしめてくださり、その様子は広く国内外に報道されました。そして翌日、フランシスコ教皇は帰路の飛行機の中で、歴代ローマ教皇として初めて原発に反対を表明しました。これは、13億と言われるカトリック教徒だけでなく、世界に大きな影響を与えたと報じられました。
しかし、僕は、その集会の直後に、会場にいた被災者の若い男性から罵倒されました。「さっきの話の 『避難できた僕らは、まだ幸せ』 とは、どういう意味だ。俺は今も福島県に住んでいる。あれは、どういう意味で言ったんだ。」と、繰り返し言われました。僕は、突然のことでうまく反応できず、その方に納得してもらえる返事ができませんでした。そのことがずっと心に残り、夜半から急性胃炎で 39 度の熱を出し、激痛に5日間苦しみました。
僕たちのような避難者は、しばしばこのような恫喝を受けます。中でも一番辛いのが、今も福島に住んでいる人や、親族が福島にいる方の言葉です。その主張は決まって「放射能が危険なのではなく、汚染や被曝という言葉を使う人が悪であり、これを成敗しなければ自分達の生活が危機に晒される」というもので、正義感と危機感で強く責められます。
しかし、この裁判でずっと主張してきたとおり、今も凄まじい放射能汚染があることは明白な事実です。僕が辛いのはここです。もしも、その人たちが、本当に原発事故前と同じ平和な生活が出来ていたなら、10 代の僕の言葉にいきり立って、わざわざ罵倒しに来るでしょうか?その方も、今も語れない辛い思いを抱えているから、そういう行動に出てしまうのだと思います。たぶんあのとき、僕がすべきだったのは、汚染の実態を伝えることではなく、その方が何が辛かったのか、何で苦しんでいるのかを、ただじっと聞くことだったのだと思います。
これが、僕が直面している分断の姿です。苦しんでいる人同士が、互いに石を投げ合って、更に傷つき、力尽きていく。元をただせば、全ては原発事故による被害です。放射能汚染に起因する営業損害や安全への不信感、今も続く被曝や将来の病気への恐怖、避難の苦痛。そして何よりも、コミュニティーの崩壊。司法に訴えることも出来ずに、涙を流しながら沈黙している人たちが、今も無数にいるのです。国は、僕らの被害を都合よく線引きし、被害者を差別、分断して、僕らを更に苦しめています。それどころか、僕らへの被害を矮小化するために、土壌汚染を始めとした多くの情報を隠蔽し、未だに僕らへの加害を認めていません。
僕は最近になってPTSDによるうつ症状があると言われ、いくつかの薬を処方されるようになりました。僕の場合、死にたいという強い気持ちが湧くわけではなく、だんだんと生きる希望が消えていきました。未来への希望も持てず、漠然と死を思いながら過ごす日々。それでもまだ僕が生きているのは家族がいるからです。家族をこれ以上苦しめたくない。ただ
生きることだけが、今の僕が家族にできることです。でも、周りにはその家族さえない人たちもいます。
事故や震災で家族を失い、深い心の傷を負った人たち。そんなひとりぼっちになってしまった人たちの命を、繋ぎとめていたものの一つが避難コミュニティーでした。しかし 2017 年から強行された避難住宅の提供打切りと追い出しで、それすらも断ち切られました。僕らは避難住宅の提供継続を求めて声を上げ続けましたが、結局、何万もの人たちが容赦なく住んでいた家を追い出されました。生きる望みを絶たれた人たちが、今、本当のひとりぼっちになってしまって命を断っても、もう避難者ではないと見放され、震災関連死にも加えられ
ません。権力を持った人が、罪から逃れようとすることで、僕たちはそのしわ寄せに一層苦しんでいます。
でも、本当は誰もが、このように歪んだ論理や倫理の中で少なからず苦しんでいるのではないでしょうか?国や行政、東電の中にでさえ、この歪みで苦しんでいる人が沢山います。苦しみながらも仕事だと割り切って、目をつぶってゆがみに荷担している人も多くいると思います。この歪みは、誰にとっても苦しいのです。だから、司法には一刻も早く、真実の言葉で歪みの元を正して欲しいのです。裁判官という仕事は、この社会の中で一番論理と倫理で動くことが許されている職業だと思います。逆に言えば、他にこの歪みを正せる人はいないと思うのです。どうか、僕たちのために、理を貫き、この歪みを打ち砕いてください。ありがとうございました。
高橋若菜さん・ 宇都宮大学国際学部教授
わたしも ききながら かんめいをうけて このあとに なにを はなしたらと おもいますけれども 調査研究をしてきた一員として 紹介させて頂きたいと思います 自己紹介ですけれども わかなさんが さきほど 環境問題ではなく 人権問題だと おっしゃいましたけれども 私は環境政治学出身です これは チェルノブイリに並ぶ 環境問題と 問題視して 研究して 参りました 意思決定への参加が まず 不足 支援や 賠償だけでなく こぼれ落ちる 被災者たちが たいへん 多かったこと そこで 分かってきたことは 今も 異常な状態が 2017年3月に 仮設住宅の 打ち切りが されてしまったんですけれども 大変な被害を 受けられた 方々は 復興住宅という うけざらがあった ここで生活再建されたとは かんがえておりません そうでない方々も たくさんおられたというかがっています うちきられたあとも 避難を続けられているかたが 非常に多いと われわれの調査結果に 出ております 今後の予定については 第一期 第二期 いずれは 帰県と考えておられるかたが 大変多い きわめて 不満が高い 見えております 司法は 被災者 救済の 最後の砦 と言われておりまして ところが問題が さまざまにありまして まずひとつは 裁判に とてつもなく年月がかかる もうひとつは 原告は 帰宅被害者でなければ 訴えることができない 困窮している人に すべてを 立証させるなんて 不可能に近い 諸外国では NGOが 訴えることができる 大手の企業とも 互角に叩ける 状況なんです そういう状況がない日本の中で 先生方は ほんとうに 善戦されていると わたしは感じております このほかに 国際規範にも 等閑視されてきた 国内避難民の尊重と権利 帰還に関する 自由意志の権利意義は 声を出せなかった子どもたちによる 被害の告発・可視化 これは 子どもであった時代に させなければならなかったと 思います 大人の一人として ほんとに 申し訳ないと 謝らなければならないことなんですけれども もうひとつ 未来へのまなざしということです 世界の若者の理想が 地球的規模で 結集させられるべきであると SDGsにも 書かれています 原発に頼らない いろんな重要な点を おしえていただきました わたしたちは 真摯に 耳を傾けることが 必要なんだと 思います 事故前の 福島の皆さんは 事故なかりせば 避難する自由なんて 全く見当たらないという お話でした みなさんは 原発の不安は まったくなかった 一部 看護師さんなどが チェルノブイリの記憶で 関心が 高いと 思っておられた 事故直後は 命からがら 何度も移転をして いくわけですね まったく行先も知らないまま 新潟に来ていた なんてかたもおられました 区域外では 原発事故だということも 知らなかった すぐにひなんしたというかたは 3割にとどまっていて ほとんどのかたは 線量が 非常に たかいんですけれども 避難し遅れた方々は のちに こどもを 被ばくさせてしまったと 後悔が強くなっていく わけです 初期避難は こどもたちは 親に従う 親は 「国が あぶないところに 非難させるわけはないだろう」 「いや なんかおかしいんじゃないの」と 8割がた 意見が 割れている 家が 多かった そのなかで こどもたちが かたってくれたなかに 鼻血が とまらなかったことを 結構聞きました 学校で ほんとうに かんがえられないことを じっさいに うけてこられたんだなあと 本で読んで ほんとうに むねがいたくなる 改めて ご本人の口からきくと さらに 痛みを 感じましたけれども この段階から みなさん 口をつぐむが はじまっておりました ほんとに死んじゃうよりは おとなのいうことをきかなきゃで 本避難を 決めていく この中で SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)で 実測するも 公開しないと 東京電力が 発表したことは ほんとに 問題があったと 思っています 核被害は もともと 続いていた この構造的暴力 によって 増幅し 不可視化されている 現状がある ここから いかに 脱することができるのか? ひとつのてがかりが 他人の苦痛への 共感共苦(コンパッション)です コンパッションが 非人間的行為の再来を 防ぐことになりうる これがまさに ウクライナにも つながっていくと思います 最後、若い二人は きちっと時間を守ったのに 大人の私が 3分超過してしまって すみませんでした。
※パネルディスカッションの全文起こし
石塚愛紗 さん・避難者
当時12歳で いろんな人に 頭を下げながら 避難先で 生活してきて いま 大学2年生で 卒業論文で 「あなたは 震災のことを 書いた方が もっと とてもいいことが かけると思うよ」と 教授に 言われて 簡単に言ってくれるなと 思って トラウマになって とっても しんどいことだし 言った先生が 悪いとかではなくて 確かに そうしたほうが いい論文がかけると 思うんですけれども 過去のことに やっぱり なってしまっているんだなあと こんなにも いしきが ちがうんだなあ ということを 感じました
友達に 言ってこなかったので こんなに 差が 生まれてしまって 生まれたからこそ 地震大国であるのに 核が なくなりそうもない この世の中で やっぱり おなじけいけんは わたしも したくないし そんな未来も 見たくないなと おもうので こえをかけていただいたんで がんばってみようかなと 今日は ここにきました 私自身 ちょっと きちんと むきあえていない 部分が あるんですけれども そんなところからも みなさんに 想像して 寄り添っていただけたら いいのかなと思います
佐藤遙佳 さん・避難者
今20歳で 9歳 小3で 福島県で 被災しました 住んでいたところは 自主避難地域で 私は 原発も 知らない状態でした 周りの 人たちが 焦っているのをみて なにがおこっているのだろう という感じでした とても母が 心配していた状態でした 家の あらゆる隙間から 放射線が 入ってくると ガムテープを はったり 換気扇を あまりつかわないほうがいいかなと 神経質というかに なっていて 叔父が とても 心配してくれていて 早く逃げた方がいいと 電話をかけて 言ってくれていたようでした 事故5日後 ラジオで呼びかけを聞いて 親戚の家のある 埼玉に 避難することになりました ちちとあにとははの 4人家族なんですけど 父は仕事で地元に残る選択をして いまも 3にんで 暮らしています ほんとに わたしは なにも しらなかったので 旅行感覚で すこし 嬉しい感じも 覚えながら 家を出ることになりました
友達と離れることは 寂しくないの と聞かれましたけれども 考えるような 余裕もなくて すぐに 帰ってこられるよと きいていたので 1週かそこらぐらいで すぐに もとどおりになって 帰れるよと きいていたので 戻ってきたら 何事もなかったように 元の生活を 遅れると 信じていたので まったく さびしいというふうには おもいませんでした 賛成も 反対もないまま ただ いかなくては いけないから ということで 行きました 行きたくないとも 特に 思わなかったし まだ そんな たいそうなことではないと 楽観的にとらえていた それが とても印象的だったと 思います これが 公の場で語る 初めてなんですけれども このように 話をすることで 何かしらの お役に立てればと思い 立たせていただいています 本日は よろしくお願いします
司会:白倉 典武 弁護士
>非難された時のお気持ちは
石塚
私も 佐藤さんと同じように ま そうだろうなと 正直 思っていて そのまま 避難先で 1年 たっていて 母が 夏でも 「マスク 帽子 長袖長ズボン 着なさい 外で遊んではいけません」と言い 学校も「 プール 修学旅行 中止」になって 怪我が 治りにくい 鼻血が出る で 思い出したんですけれども いまだに 傷跡が 私も残っていて いろんなところで おかしな状況を 感じていました
自主避難は 情報を 聞いていたので いずれ するだろうな ということがあったので 母が 思うより先に 私自身が すごく 覚悟していたので ずっと 仕方がないなと 自分に 思いこませていたかなと いう気がします
わかな
当時 15で 避難するときは もう戻ってこないんだなあと 思っていました 荷物が どんどんなくなり 売れるものは 売って 部屋は がらんがらんになっていくのを ただただ ものが どんどんなくなっていくと思って みていましたね くるまのまどから 桜が おいかけてくる きがして すごい むなしい気持ちと なんともいえないきもちになりながら 去りましたね
鴨下
3月17日でした 旅行くらいのきもちで 避難して そのまま 帰れなくなってしまった 感じですね
高橋若菜・ 宇都宮大学国際学部教授
ほんとに お話聞いてて いま 避難前から みなさん 暮らしが 奪われていて こどもだったら あたりまえの ふつうの生活が まったく そこなわれて いたということ あと 健康被害にかんすること みなさん 語れないので 語らないんですけれども でていたと いうこと 原発事故では うしなったものが あまりにも 多くて それは 当初から そこなわれていたものが ほんとに 多いんだということが いまの おはなしから よく 見えてきました
>避難先で ご家族の中であったこととか 話せる範囲で お話しいただけますでしょうか
わかな
体調不良の お話が出たので 私の場合 吐き気が とまらなかったり 心臓が痛い なんだろう この痛みはと ずっと思っていて 定かでは ないんですけれども 病院に行っても 異常はありませんと 検査で言われ 怪我をしても 治りが 遅いし あざが なおらない ずっと 残っており 高範囲が 紫色になって いっかげつくらい そのままで ふつうだったら もっと早く なおるんだけどなと そういうことが 高校3年間くらい ずっと つづいていて 早く逃げたとはいえ 被ばくはしているし 山形も 放射能は 降っては いるので 影響してたんじゃないかなとは 思います
広島・長崎の 原爆ぶらぶら病に ほんとに ちかいものが でていて 因果関係は ございませんと 国も 政府も 言い切っている 状況が つづいていて 高校生活を おくっていた 感じでしょうか 友達を 現地に おいてきてしまった 罪悪感を 感じていたので 自分だけ 逃げて 過ごしている 罪悪感 という言葉でしか 表現できないんですけれども そういう 複雑な気持ちを かかえながらすごす 高校3年間でした ですが そうですね 避難していることについては 肯定的にとらえていましたし 逃げてきて よかったなとは 思っていましたね
石塚
帰りたいか 言葉や 細かい 文化が 違うし 大都会だし オール電化で 火は ぜんぜん使わないし 怖いなとは 思っていました
私が希望する 福島での 生活は 自然の中で 走り回っているのが 私の福島だから そのときの みんなの 福島だから 今 戻っても 幸せじゃないと おもっていたからこそ 帰りたいと おもわなかったんだろうなと 思います
母は 「帰りたいね」と 言っていました いまのいま となっては その母も「帰ってもね」 と 言うんですけれども
わたしが思う 帰りたいは 10年前の 福島であって でも こうして 健康でいられるんだろうなと 引っ越してきたからこそ よかったのかなと おもっています
友だちの対応は 転入先の小学校で 事前に 「避難してきたからと言って ひとからひとへと うつるものではないですよ」と 授業を してきてくれたようで そういう意味で すごく 理解してくれていたのかなと 思います 変に 気を遣わずに みんな接してくれたのが いちばん ありがたくて それも そういう授業の おかげかなと思います
佐藤
わたしは 小学校高学年から 中学生まで毎日 とても 帰りたい気持ちで いっぱいになっていました 壁に 頭を グリグリっとして こうしたら 昔に帰れるんじゃないかなと 思いながら くりかえし やってしまうほどでした クラスメートも せんせいも とても よくしてくれて いじめも 全くなく うけいれてくれて それは とても 嬉しく思いました 高校生ごろ ある程度の年齢に なったころには 地元への 愛着があって 帰れたら 帰りたいとは 思いましたが 以前ほど どうしても帰りたい という 気持はなくなりました しっかり 理解して どれほどのことがあったかを じぶんなりに 良く理解できたからかなと 思っています
家族の中で 帰る 帰らないのはなしで 意見が 割れることはなくて 避難は 続けた方がいいんじゃないか ということで 一致していました わたしが ちょっと 放射線の影響では 小さい子どもが 健康被害をうけやすいと 報道されていると おもうんですけれども 避難したのは もともと わたしが からだが ちいさくて やせているからじゃないかと 問い詰めたことはありました めいかくな きっかけはなかった 時間がたつ中で 避難した方がいいのではないかなと ちょっとずつ わかっていった感じです
鴨下
小学校で いじめにあって どこにいくにしても 匿名で 話すようにしてたんですね 中学は それで ふつうに せいかつすることが できたんですけれども さらに 原発事故 被害が続いてしまっている どんどん 苦しい状況が 続くになってしまっていて オリンピックが おわったら 復興五輪だと言って すべて 終わりにされてしまうんじゃないかという 危機感が あって ローマ法王に 手紙を書いた 送った という感じです かえていきたいというのもあるし どうしたらいいいんだろうという 悩みも含めて 送った感じです
>避難してよかったなあ わるかったなあ ひとによって いろいろあると 思いますが 肯定的に 考えている理由 良かったなあと思う理由は 何かありますか
わかな
比較的 被ばくを 抑えられる ということですかね どれくらいの 線量で 健康被害を受けるかは ひとそれぞれ ちがうんで 厳密には 逃れたから 逃れられるは 違うと 思うし 国から おくられてくる 検査は そのたびに ドキドキするし 避難したこと自体は よかったなと おもいますけど 答えにくいしつもんだなと すごく 感じている 自分がいます
>こんなことが たりなかったな ということはありますか
わかな
はなしを きちんと きいてくれる うけとめてくれる ひとが いたらいいなと しょうじき 思いました 山形いったときに 当時 「がんばろう」と 幟に かいてあったんですけれども ふざけんなと 思っていて よりそうとか 絆とか いいつつ まったく言葉だけだというか 想像力が 足りてないせいで 投げつけられてしまう言葉とか そういうものが どうしても 多かったなと 思っていて
こういうことを 言ったりすると 「もっと 感謝せえ」とか 「あなたは 逃げれたのだから いいでしょ」とか やっぱり 大人から こころない ことばを 言われたのが ものすごく しんどかったので 学校や 支援するグループに 任すのじゃなくて みんなが きちんと かんがえて くれれば よかったのかなと そこが もうちょっと ほしかったかなと 思いますね
鴨下
やっぱり しっかりとした 前提知識がないまま 原発の是非とか 帰るかどうかとか はなしあわれても それで ただしい ことばが でるとは おもえなくて まちがったこたえが でてきちゃうし そもそも 解けないっていう せめて じょうほうぐらいは ださないと いまの じょうきょうだと こんな情報は だれかを 傷つけるから だしちゃいけないんだと 圧力がかかるというか おきたりすると おもうんですけど それでは また 同じ 悲劇がおきてしまう しっかりと 情報を 共有したうえでないと 先にも 進めないということで 重要なのは 事実である以上 知らざるをえない それを 傷つけるから 隠す 話に されてしまうと たしかに いっときは 傷つけないかも しれないんですよ でも それは なんとしても 悲劇を とめるために しっかりと ださなきゃいけないことじゃないかなと 思います
石塚
中学 高校に はいって どうだったのか わたしが被災したんだよ っていっても へ? あ、そう? まだ そんなひとがいたの? というような 幻の存在が あらわれたみたいな 感じだったですね 多分 興味ない というか それは それで 私自身つらいことを 思い出さなくていいので 幸せに過ごせた 中学 高校時代だったんですけど 興味がないからこそ 聞かないし
きのう 3.11あって 去年 一昨年も そうだったんですけど 募金できるよ っていう 有名なサイトが あるじゃないですか あれをしたよと 友達から 報告うけるんですけれども 私が すごく いいことだと おもっている前提で 聞いてほしいんですけど また わたしが ありがとって いわなければいけないのかと
わたしは ずっと 引っ越したこととか トラウマとかと ずっと たたかうと おもうんですけど まわりから したら 過去の出来事で 10えん いいことをしたよと わたしに つたえたい もんだいであって
これは 絆じゃなくて 絆というエンターテインメントだなと
そこの はけぐちに されてるのは 嫌だなとおもいつつ でも 募金してくれたから ありがとうかなって いう そういう きもちだったかなと おもいます
佐藤
こういう状況に おかれているひとは 少数派の状況なので 言ってしまうと なんかちがう人扱い されてしまう気がして とても 怖く 思っていました 高校時代は おそらく 先生の間でも 共有されていることが 無かったかな という感じで 「なんでここにきたの?」と 聞くひとがいて 信頼している 友達とかだったら 言ってもいいかな というかんじです 反応は 無関心 「原発って何?」「福島県ってどこ?」 って 言われたり 避難したことを 話の流れで 言ってしまったんですね そしたら 反対派の人だったらしくて 「まちがってるんじゃないの」と 面と 向かって いわれて 私は みんながみんな 肯定派ではないと わかってるんですけれども 当事者に向かって それを いうのは どうなのかなとは 正直 思います
>いままで いくつかの質問に こたえていただいたんですが 高橋先生は われわれの社会として どういうふうなことを やっていかなければいけないと 思われますか?
高橋若菜・ 宇都宮大学国際学部教授
わたしが つけくわえることはないと 本質的 根源的なことが 全員から 聞こえてくるなと わかなさんがいった 自分事として 考えていないのではないのではないか ほんとにそうだと むかしの事になっているんですけど いまも 緊急事態宣言があって 20ミリシーベルト そのままで 鴨下さん 情報 出しちゃいけない 圧力 わたしも 経験ありますし 環境・人権侵害 情報 わかりやすく出す いちばん重要なんですね あるいみ 加工して 可視化する それなり 一定の テクニック 必要になってくることも 尊重されない中で 専門家が きめればいいという これは 専門家は 本来 当事者の声を聴き 知恵を きちんと反映することが いちばん 大切なことなんですね やっぱり トラウマ 消せないですよね そこを こうやってきてと 話してくれたのは ほんとにうれしいし 大人を代表して お礼をもうしあげたいと 思います このまま どこかで つかわせていただきたい ここででてきた 絆エンターテインメントという言葉 ほんとうに 重要な意味で 外で 使われていったらいいと 思います
鴨下
ひどいことばは SNSで よく みられるとおもうんですけれども ぼくは みないですけれども たしかに 誹謗中傷おきてしまう 残念な点も あるんですけれども それと 同時に 社会運動が 起きやすくなった そういう点も 見ておきたい 僕は デメリットと メリットは 新しいものが 出てくるときには あるものなので 否定はしたくないないなと いう立場なんですけれども 学校や テレビで もっと 受け流す方法とか 防衛方法をまなぶこととかを おしえていければ いいんじゃないのかなと 思いました
わかな
鴨下さんの意見に 共感していて 私も ひどいことを 言われていて かかわってられるかという かんじなんですけど 一方で 私は SNSに 救われた人間なんですね Twitter やってみたらと たまたま 友達から言われて ものすごく フォロワーが いっぱいついて わかってくれるひとが いるんだと いいきっかけができて なかったら わたし 多分 あのとき 死んでいたと思います 救われたかなと 思います
鴨下
早稲田のオンライン・シンポジウムで 発表したりしているんで YouTubeにあれば 講演の内容 が あるので それを探していただければと 思います
CTVC講演会「福島から語る」 鴨下全生さん - YouTube
司会:白倉
土壌汚染は 各地の弁護団が 調べている いまだに 4万ベクレル こえる土壌汚染が 広がっている地域が いっぱいある 客観的に明か でも そういう調査が あまり されていないことも 問題だという風に おもうんですね 最後に ひとことずつお願いします
わかな
東海村JCOウラン加工工場臨界事故(1999)では あれだけ 健康調査をやった 福島は あれにくらべたら 適当です この状態を どうにかしなければ いけないんだろうと すべをもっている わけではないんですけども 今日 どうしても はなさなければ いけないじゃないかなと おもいまして
生きていたから 種を捲いていけるんだろなと たぶん 思っていて つらい それでも あきらめずに やっていくことが ものすごく たいせつなことかなと おもいます
おとなのかたが 諦めないでほしいです こどもも いいんだ これでと あきらめます
関心がない あれは こどもたちが わるいんじゃなくて おとなたちが 悪いと思います 次世代よろしくねと 丸投げ するんじゃなくて おとなが 関心を持って やっているところの 背中を見せると こどもたちもと 思います
石塚
ま きょう こんかいは ふくしまげんぱつの ひさいしゃとして おはなし させていただいたんですけども いまの日本って 少数派じゃない人の方が 少ないと思うんですね わたしは ぜんぶ だいたすうです というひとは いないんじゃないかなと 思うんです
じぶんじゃなくても 家族や まわりが 少数派だとか
私って 被災者っぽくないと すごく 言われたのを いま 思い出してしまって カメラの 顔だと こうですが 避難先で 着飾っている人が 「被災者じゃないでしょ」とか よく いわれたんですね 着飾ったり したいじゃないですか くるしい おもいをしているひとも いまは こうしているんですよ でも まだ たたかっているかもしれない じぶんとも ひとりひとりとも むきあって過ごして わすれないでいてほしいなと思います
佐藤
ひなんをよしとしない くうきがあったり そういう たいけんをされたかたが いらっしゃる とても いんしょうてきでした このくに しゃかいには 危機感が すくないんではないかなと 考えています どちらかといえば 原発を推進していて しかも 外国への 輸出も していて まだ もとにもどれていない 被害がおわっていない わたしたちみたいな ひとがいる というのは とても悲しい じょうきょうだと おもいます 危機感を持ったうえで これからいつまでも やっていけるような 発電方法 原発の在り方について かんがえていきたいなと おもいます
鴨下
絆エンターテインメントのことばに すごい 共感を おぼえて 絆 美談は くるしみ かなしみ 肯定したものが 絆 美談だと おもうんですね なにも 破壊されなかったとしたら 本来なら 絆 美談なんか 必要なかったと おもうんですよ
だのに 権力を 持ってる側が じぶんの やるべきことを 放棄して 絆にたよるは まちがっているなと
苦しい側が 絆で がんばっていきましょうは いいと おもうんですけれども 助ける側が 絆で がんばっていきましょうは 正しい意味で つかわれていないなと 思います
美談は 権力側じゃなくても つかってしまうことが 結構あると おもうんで ちゃんと 理解して つかわないと だれかを 傷つけてしまうんじゃないかな ということに 自覚的で ありたいと思います
高橋・ 宇都宮大学国際学部教授
美談に 切り替わってはいけないと おっしゃってましたが 言葉の本質を 若い人がとらえているというのは ほんとに 未来への希望だなと 思います 大人でも 話すときに 緊張したり 話すのがつらいとか あったりする 石塚さんが おっしゃったことなんですけども 避難者を こうじゃなけりゃいけないというステレオタイプで とらえれていて 多様性を みとめない ステレオタイプに みんな くるしめられている ほんしつてきなことだなと 思いました SNSで 被災者が 攻撃を受ける いたましい バッシングを なぜ する側は してしまうのか すくなくとも おとなは やっぱり やっちゃいけない そういうことを 伝えていきたいと 思いました
閉会挨拶:青木 佳史 弁護士
4にんのみなさん ご登壇ありがとうございました ゆうきをもって おはなしいただいたと おもいます 2012年から 11回やってきましたけれども はじめて その後の体験を 直接 語っていただける機会を持つことが 今日できました あらためて 一人一人の中から きくことができまして 3.11から 11ねんたってどうですか さまざまなところで 聞いたりします そのなかには もちろん 思い遣りは あると思いますが 他方 それが なくなってほしい よくなりました 大丈夫ですよ と言ってほしいという 期待もひめているのではないか きょうのはなし 起きた事実はなくならない その中でしっかりと 事実から 目をそらさずに 生きていくんですよという おはなしであったとおもうし われわれは 共通の理解をつくっていく 事実をなかったことにしない いのちをたいせつにして これから いきていってほしい 其れを 共有していけることで 共感できる社会も できていくんじゃないかなと思います おなじおもいで これからもいきたいなともおおもいました
さいごに ウクライナは どうしもて さけることはできないなと 福島の皆さんは ウクライナの人たちと 同じ思いになっていると思います われわれと おなじものとして うけとめて 一日も早い 終戦 平和が戻ることを 祈りたいとおもいますし われわれも できることを していきたいと思います ありがとうございました
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