一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

45週目。2022/8/22(月)~前半①※資料No. 134(朝鮮人空襲犠牲者)

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2022/8/22(月)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。
「今週は、木曜日は休み、土曜日はIらと、ゆうのさんで懐石。日曜日は午後から集団接種。


夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(笑、同上で)。
おかあさん コン🦊ばんは。昨日の日曜日は、早朝からお騒がせメールを送ってしまいましたが、わざわざお返事どうもありがとうございました🙇🙇一日、天にも昇る気持ちで過ごせました🤗🤗(←大げさ、笑)


今週は「根っこばなし」はちょっとお休みして、トウサンがお休みの日にご友人と食べてきた、(お品書きから愉しい)多満喜 (たまき)さんの8月の酒肴セット(日本酒付)を、写メでご紹介をしますね☆彡

まずは全体像を↓

先付・・・鱧、雲丹、糸瓜(へちま)🐟🐚🥒 酒:澤乃泉(さわのいずみ、宮城県登米市)(1枚目)

造り・・・季節の魚二種🍣🍶 酒:おすすめ酒(2枚目)

焼物・・・鴨と水茄子の挟み焼き、あしらい🐓🍆 酒:大盃(おおさかずき、群馬県高崎市)(3枚目)

煮物・・・スッポン茶碗蒸し🐢🥬 酒:篠峯(しのみね、奈良県御所市)(4枚目)

鍋・・・穴子しゃぶしゃぶ🐡🍄 酒:おわら娘(おわらむすめ、富山県富山市八尾町)(5枚目)

※コース料金は 4,380円 、お酒抜きは、3,850円(共に税込)

https://tabelog.com/osaka/A2701/A270201/27044765/party/197399435/

8月の鍋は、スッポン鍋or穴子しゃぶしゃぶだそうです🐢🐡
そして、コチラが1枚目の、「鱧、雲丹、糸瓜(へちま)」の写メです🐟🐚🥒

炙った鱧と、宮城県産の(?)雲丹と、夏野菜の糸瓜のアンサンブル🍴😍美味しそうですね🎵🤤

旬の食材ばかりの前菜を、澤乃泉・特別純米酒で乾杯🍶も、とても愉しそうです🎵🤗


旬の野菜や、小魚、肉、卵を使った料理は、ストレス発散にも効果ありですし、私たちもお互い、旬の野菜や頂き物など、あれば仲良くお裾分けしあって、ワイワイ愉しくやれるといいですね😉🎵

それでは、明日も、私のド下手な食レポをお楽しみに🎵😆おやすみなさい😴💤✨」

With "Ryoryo"(ウイズリョーリョー)

きょうは雨上がりに夜ランへ行って、4,775歩(3.3㎞)走り歩きしました🏃🐾そのあとは、鄭末鮮(チョンマルソン)さん(89)の『「ずっと語れなかった~大阪大空襲と朝鮮人」 』の文字起こしをしました↓


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放送日:2022年8月15日、提供:MBSラジオ、取材、ナレーション:亘(わたり)佐和子・毎日放送記者
「ずっと語れなかった~大阪大空襲と朝鮮人」、鄭末鮮(チョンマルソン)さん(89)
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※部分起こし

0:02:30~

取材、ナレーション:亘(わたり)佐和子・毎日放送記者

大阪空襲の 1割近くは 朝鮮人だったと 見られていますが その証言は 実はほとんど のこっていません いったい なぜなのでしょうか 戦後77年 日本の社会が 見ようとしなかった「歴史の空白」を 考えます


0:38:08~
空野 佳弘 (そらの よしひろ)弁護士、大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会
ピース大阪に 展示されている 空襲の 被害者のことなんですけどね 朝鮮人の 名前が 殆どないと 調べていくと 通名で 記録されていて 本名で 記録されてないと いうことが わかってきたので それが わかった人について 本名で 記録し直してくださいと 要請を 続けておったんですね そしたら 一部 そういうことが わかった人について 通名を 消して 本名を 新たに 記録したと ところが それについての 説明が どこにも ないんですね 極めて 不親切ではないですかと いうことで なぜ そういうことが 起きたのか 市民に きちんと わかるように しなくちゃいけないんじゃないか ということで 解説板を 設置してほしいと お願いしたわけです

当時の 朝鮮人の人々は 日本の 植民地支配の下で 日本の 大阪に住むことを 余儀なくされて しかも 日本の 侵略戦争に 巻き込まれて 命を 亡くしていったと 言うなれば 日本の 植民地支配の 犠牲者ですよね 

だから 日本人の 被害とは 別の側面が あるので それは 区別して 記録しなければいけない 日本の「加害の歴史」を きちんと 記録に 残す

片山靖隆・ピースおおさか(大阪国際平和センター)館長
意味合いが 違うので それを 説明をするべきだ ということ ですかね そこは あの モニュメントを どういうものとして 展示をしているのか ということと 関わってくる 話しですし 今 結論が 出てない 状態ですので 

以前 要望に 来られた時に お話してたのは 「大阪で 1万5千人 と言われれいる 犠牲者の方は 戦闘に 参加している 方じゃなくて 一派の方々から 沢山の 犠牲者が出たと その下で 戦争の悲惨さ であるとか 平和の意義を 考えて貰おう というのが まぁうちの展示の 趣旨なので」 ということで お答えを させてもらったんですけどね 
  
亘(わたり)佐和子・毎日放送記者
朝鮮半島に ルーツのある方たちが なぜ 大阪にいたのか そこを きちんと 伝える意義については どうお考えですか?

片山靖隆・ピースおおさか
そこは 色んな 経過があって 来られているんだと 思いますので お名前の件も そうですけども 単純に こうですよと 言い切れない部分も あると思いますので 

亘(わたり)佐和子
あの 色んな 経緯と おしゃったんですけれども やっぱり 日本が 朝鮮半島を 植民地にしていた というのが まず 根本にあるんじゃないですか? 

(0:31:28~)
横山篤夫・元高校教員、大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会
日本人の 空襲体験を 聞くと 話の起点は 1945年です 朝鮮人の 話は そうじゃなくて その前 つまり 植民地にされて 日本に来て 日本で 凄い苦しい生活をして  日本人は 朝鮮人の苦しい生活に 比べれば 一定の生活が 成り立ってたわけですよ そこへ 朝鮮人は 連れてこられて 「植民地朝鮮」という言い方で 扱われるような中で 生きなければならなかった その時点で まず 大変な経験を してるわけですね その上 空襲を 受けるわけです
 
空襲が 終わってから 今度は 日本が 敗戦を迎えて 朝鮮人は 解放されて帰るんだって 喜びますよね ところが 自由には 帰れないわけです この間の葛藤というか 空襲で 日本人が 苦しかったと 言うのとは また別の 大変な苦しみをしたわけですよね 

そのあと 朝鮮戦争が 始まって これまた 同じ民族で 血を流すわけですから 家族の中で 関係者が 血を流したり そんな話が 出てくるわけですよね で それが 終って そしたら 今度は 高度成長の時代に 日本が 入るけれども そしたら 色んな 格差の問題とかが 出てきて 

朝鮮人にしたら そういう いくつもの 大変な経験の中の 一つが 空襲であると そうすると おんなじ スケールで 救おうとすると 朝鮮人の 記録が 落ちちゃうんです 見えてこない もっと早く ちゃんと 聞き取りを すべきであったと いう反省が 凄く ありますよね だから 今からでも できることだけは つなごうと そんな気持ちですね
  

0:30:11~

川瀬俊治・朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会、ジャーナリスト

「私は ここで 日本人の名前で 生きているんだから 取材に来てもらったり そういうことは. 一切 駄目です」と 「平穏な 生活を 送らせてほしい」と 在日朝鮮人である ということが 日本人には無い 余計な苦労 余計な葛藤 余計な差別を 受けるわけですよね いまだに そうすると 明らかにすると それが 襲ってくるわけですよ だから それに対して やっぱり 防衛しなくちゃならない それは 日本人には なかなか わからない 部分である 当事者にしか わからないものである だから 言わない


0:48:20~)

亘佐和子

鄭(チョン)さんは 去年(2021年)滋賀県守山市の小学校6年生に 戦争の体験を 話しました 

真っ白な チマチョゴリ姿で 子どもたちの 前に立った 鄭末鮮(チョン・マルソン)さん  朝鮮の 金属製の食器を 見せながら 話します


0:49:10~

鄭末鮮(チョン・マルソン)さん(在日朝鮮人2世、大阪大空襲で家族4人を亡くした)
母親が 日本に 渡ってくるときに 母の親が こういう食器を 持たせてくれたんですね  その 食器とかを だんだん 日本も 戦争していくうちに なんか こういう 金属が 足らなくなったのかしら 一軒一軒にね 集めに来るんですよ 「金のものは 何かないか」言うて ほしたら 出すもん 無くなって 母親が これを 出すんですね 

出さなかったら アカン 「絶対 あったら 出せ」 と 強制的です 朝鮮から 渡ってくるときに 親からもらった 食器を その 戦争のために 「戦争の軍艦にするんや」 「戦争の鉄砲の玉にするんや」 「金目のもんがあったら出せ」って 集めに来ると 出さなしょうがない 隠してて 見つかると 怖いから 

そうして 全部 最後 出すときに 母が「国(朝鮮)から 渡ってくるときに 親から貰ったものは もう これで 最後や これで 親から 貰って来たものは 何もなくなった」言うて 涙ぐんでいるのを 子ども心に 覚えてるんです 

そういう 想い出のあるのが その品物ではないけどね こういう食器です だから みなさんに 見てほしいなと思って 持ってきました よかったら また 見て下さい 触ってもいいよ 

もう本当に 私の体から 頭から このことを 忘れられたら いいなぁと思うたこと ここ何年間かの間に あります けれども 最近は 絶対に 忘れてはいけない もう いつまでも これを 悔しかった 悲しかったことを みなさん 一人でも 多くの人に わかってほしいし 伝えていきとうなってます 

どうか みなさんね これから 一人でも多くの人に 「戦争は いかんのやで」「差別は いかんのやで」ということを ひとりにひとりずつでも 伝えてほしいなと思います 


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※今日の文字起こしのソースはこちらです

放送日:2022年8月15日、提供:MBSラジオ-FM90.6MHz、

取材、ナレーション:亘(わたり)佐和子・毎日放送記者

報道特別番組「ずっと語れなかった~大阪大空襲と朝鮮人」
出演者:鄭末鮮(チョン・マルソン)さん(在日朝鮮人2世、大阪大空襲で家族4人を亡くす)
金禎文(キム・ジョンムン)さん(大阪大空襲で祖父を亡くす)
横山篤夫さん(大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会)
塚﨑昌之さん (大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会)
高野真知子さん(野洲中学校校長、鄭さんに文字を教える)

趣旨:0:9:55~
戦争中 大阪は 8回の大空襲を 始め 50回以上の 空襲を受け 1万5000人以上が 亡くなりました 鄭末鮮(チョン・マルソン)さんの 家族が亡くなった 第三次大阪大空襲は その空襲の中でも 最も 悲惨なものでした 1945年6月7日 昼の11時から 12時半にかけて B29 400機が 飛来 焼夷弾と 一トン爆弾を 投下し 更に 逃げ惑う人たちに 戦闘機P51が 機銃掃射を おこなったのです
その 大阪空襲で 戦災者の1割近くは 朝鮮人だったと 推測されています しかし 彼らの証言は ほとんど残っていません それは なぜなのでしょうか? 70年たって 自身の体験を 語り始めた 在日朝鮮人2世の 鄭末鮮さん(89)の人生から 考えます
※動画の視聴はコチラです:https://www.youtube.com/watch?v=utvsq4mJm68 
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