一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/7/25(月)から今日まで。(第41週ー前半③)※資料No.113’(死刑制度)

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2022/7/27(水)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。
「昨日は6時半で打ち切り。夜は◇☐とキーマカレーとバターチキンカレー。今日も予約があっても、6時半で打ち切りです。夜は遊びに行きます。明日は休み。今日はガッキー君(※息子氏の幼馴染み)が来るかも。」(※◇☐:息子氏の名前)


夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(笑、同上で)。
「おかあさん コン🦊ばんは。
昨日のトウサンは(多忙が続いていても)、火曜カレー休肝日を守りました🍛🥛😋✨⤴
ご存じのように、トウサンも、早いもので今年度、還暦(定年の年齢)を迎えまして👚そろそろ余生のことも考えよかなと思っていた時に、このコロナ禍、第7波にぶち当たりまして、またこのコロナ禍、第7波が、途切れを知らない鬼高波で、それで今まで決してそんなことはしたことがなかったんですけれども、そして長時間、お待ち頂いた患者さんには誠に申し訳ないんですけれども、昨日より、定刻が来たらそこで閉めて、あとは自分の養生に努めさせて頂くことにした次第です🐼🙇⤵


それでは、きょうも、『根っこばなし』より『取りあげ婆さ👵🧸💗』の最終話をお送りしますね👶🍼🍬
前回の『取りあげ婆さ👵🧸💕』は
今から131年前、濃尾地震が起こった晩のあるお産を、ムラの婆さが介助した件で、警察が「当人も番頭も実家で生んだと訴えている。お前は狐に化かされたんだ🦊👮‍♂️🚓」と言う暴挙に出たのに対し、婆さが「狐であろうと人間であろうと知ったことか。わしらは、目の前に困っている人がいたら、放ってはおかぬ。ただそれだけじゃ」と、ひるむどころか呆れ顔で返答した👵🦊💕
というお話でしたね。


なお、『取りあげ婆さ👵🧸💕』は、タイトルに魅かれて選ばせて貰った作品なので、物語が予期せぬ展開(?)になるかもしれないことを、あらかじめお詫び申し上げます(笑)🙇


「根っこばなし」より『取りあげ婆さ👵🧸💕』
👶🍼🍬
⑫(最終話)
この じん(人)ならば、地震も 狐にかづける(かぶせてしまう)じんじゃと あきれてまって、🦊👵
とくと 署長を ながめたら、机の上に 両足のせて、
きせろ(※キセル)くわえて 天井見とると。👮‍♂️🚓


「なあ、おまえさま。この 婆さから、先夜の衆に ことづてじゃ。👨🏻👩🏻👶
産気づいたら、またござれ。
わしは 死ぬまで 取りあげ婆さじゃに」
とな。💕👵👶💕


帰れと 言わんに もどってきたが、
歩くたんびに ごうが わいて、
河原の 石が 目に つかなんだと。✨👵🦊✨
 (おしまい)


💕👶💕
最後はちょっと、しんみりしましたけれども、あの大地震のさなか、出産を助けた命の恩人の婆さに、御礼も言えないお金持ちの人たちに、「産気づいたら、またござれ👵」と、婆さが皮肉をお見舞いされるシーンに、私も胸がスッとしました🤗🦊✨
婆さ、最後まで本当によく粘られましたよね👨🏻💩👮‍♂️🚓🦊✨


それでは、私たちもお互い、女は度胸で、わからずや連中には席を蹴って、さようなら~といきましょう~!?😉🦊✨
「さようならの代わりに、さよオナラ、プ~~👶🦊💕」(笑)


以上、最後までお読みいただきありがとうございました。次回は明後日、7/29(金)になりますけれども、お楽しみに(?)✨おやすみなさい😴💤🦊✨」

With "Ryoryo"(ウイズリョーリョー)

そのあとは、『哲学者 高橋哲哉さんによるオンライン講演会「なぜ私は死刑に反対なのか」』の文字起こしをしました(後編)↓
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開催日:2022年6月18日、主催:特定非営利活動法人CrimeInfo、協力:アムネスティ・インターナショナル日本 講演:「なぜ私は死刑に反対なのか」、講師:高橋哲哉・東京大学名誉教授
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※講演の部分起こし
(0:49:41~)

カント「人倫の形而上学」加藤新平・三島淑臣訳 (中公バックス) 世界の名著 39
均等性 等しいとは どういうことか カントによると「一人だけでも 殺した者は 殺されねばならない」 では 複数殺した者はどうするのか? 多数を殺した者はどうするのか?


これは いくらでも 例をあげることが できるわけですけども 例えば 植松 聖(うえまつ さとし)死刑囚 19人を 殺害したということですね 1人を殺した者の死刑と 複数以上 殺した者の死刑とに 区別をつけるのか つけないのか? について カントには 言及が ありません



2016年7月26日相模原障害者施設19人殺害事件から6年、植松聖死刑囚は2022年4月に横浜地裁に再審請求


まぁ 1人を殺した者の刑罰と 多数を殺した者の刑罰とが 無差別に同じ死刑であるというのは 理解しがたい という話なんです つまり 釣り合わない 気がするんですね
或いは この上もなく残虐な と感じられるような殺人 これを 計画的に行った犯罪者と まぁ 不幸な境遇から 一時の感情に駆られて 殺人を犯してしまった というような犯罪者 これを 同じ死刑に処することは 均等性の原理に 合致しているのか? 残虐な殺人者には 残虐な死刑を持ってするのでなければ 均等性 つまり 釣り合いがとれないのではないか?


カントは この点については 
「被処刑者のうちなる人間性を醜悪無慚なものとなしかねないような一切の残忍なやり方からは脱却したところの死刑を別にして、当該犯罪に釣り合うどんな他の報復もあり得ない」カント「人倫の形而上学」加藤新平・三島淑臣訳 (中公バックス) 世界の名著 39


つまり 彼の 倫理学上の人格主義 「人間性における人格 人格における人間性を 目的自体として尊重しなければいけない」という この人格主義から 歯止めをかけていると 思われますが 要するに 残虐であったか なかったかの この殺人の具体相は 均等性の計算には 入らないと いうことになりますよね  


(0:52:50~)
実は カントも 「等しきものには 等しきものをという この原理は 文字どおりには 可能でない」と言っています しかし カントは 「刑罰的正義の概念に 文字の上では 矛盾しても その精神に沿った刑罰は 可能である」というふうに 言うわけです
要するに 何が言いたいかと言いますと 「当該刑法の原理は 難点を抱えていて 死刑についても それは同じである 殺した者は 殺されなければならない というのは 決して自明ではない」ということなんです 


ここまで 死刑存置の根拠として出される 二つの意見 「被害者や 被害者遺族の気持ちがおさまらない」、「凶悪な犯罪は命を持って償うべきである」に コメントしてきました



(0:25:55~)
この調査(5年ごとに内閣府が行っている世論調査)では 
死刑制度への賛否は 聞かれますが 絞首刑への賛否が 聞かれることは 私が知る限り ない
ですね 


「国民の多く」まぁ 勿論 在日外国人の人でも 事件によって 裁かれる可能性が ありますから まぁ 国民と言うよりも 市民と言った方が いいのかもしれませんけども 市民の多く 「この執行方法等」つまり 絞首刑の 具体的な在り方 具体相について ほとんど知らないままで 死刑に賛成している可能性が 大きいと 思うんですね  

これです 左側 絞罪器械図式(こうざいきかいずしき)、明治6年(1873年)太政官布告第65号 
右側が 朝日新聞2009年3月10日に 紙面に出たもの 東京拘置所の刑場っていうんですか  基本的な形が  絞罪器械図式(こうざいきかいずしき)になっている ということだろうと 思います
まぁ 執行の時に 死刑囚の体に 何が起きるのか 或いはこの 刑務官の方たちの精神的な負担は どんなものなのか そういうことが 知らされていない 知ることができない 日本では 秘密主義が 守られていて 国際的にも それが批判されている


やはり 政府 法務省は 絞首刑の実態を 国民に 知らせた上で 今日の時代と環境において それが 残虐な刑罰に当たると 判断するのかどうか これを 国民に 問うべきだと 私は思います



2022年7月26日 秋葉原無差別殺傷事件・加藤智大死刑囚 死刑執行


(0:29:38~)
要するに 残虐か否かは 執行方法によっても違うし 一つの執行方法についても それが残虐かどうかの 知覚は 人により 時代によっても違う ということで 結局 問題は 執行方法ではなく 死刑そのものが残虐かどうか つまり 刑罰として死に至らしめること 殺すこと 生命を奪うこと自体が 残虐ではないのか? ということに なってくると 思います
廃止派は 残虐だと言って まぁ 存置派は そうではない と言うわけですね
私は 生命を奪う刑罰と それ以外の刑罰には やはり 質的な違いがある 本質的な違いがある というふうに考えています
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※質疑応答の部分起こし
(1:11:45~)
>先ほど カントの考え方についてのご紹介があったんですけれども 過去の著名な哲学者の中でも 死刑に対する態度の違いなど あるのでしょうか?またそれは どこから来るものですか?可能な範囲で お聞かせ願えないでしょうか


高橋哲哉・東京大学名誉教授
これは 膨大な問題に なってきますね 今のご質問に対して 何か一義的な答えができるとは 思いません ただ デリダは「ヨーロッパの 体系的な 厳密的な意味での哲学者で 死刑に反対した議論を 本格的に提供した哲学者は いない」 と 基本的に みんな 死刑存置 賛成 という立場です まぁ カントも そうですし ヘーゲルも まぁ そうでしたし まぁ ソクラテスは 「悪法もまた法だ」って 死刑を受け入れていった わけですね 或いは ジャン・ジャック・ルソーも 「凶悪犯罪者 これは 国歌にとっての 攻撃なので 戦争と同じなんだ」 ということを まぁ 言いましたね 


現代でいうと 例えば アルベール・カミュ なんて人は 広く言うと 哲学者 基本的には 文学者ですが カミュは ギロチンについて 政策というところで 死刑に反対の 論陣を 張りました
   
ジャック・デリダは そうした 哲学の伝統が なぜ 死刑を肯定するのか?というところを ギリギリ 問いあげていって 彼は 「世界の流れは まぁ 死刑廃止に なるんだけれども しかし 死刑廃止論の まぁ 哲学的な根拠も 必ずしも 確固としたものではない」ということで その 理論的な根拠を やはり 打ち立てようと したんですよね


最終的な 解答が 出たかどうかは やっぱり 微妙なところですが 残念ながら 探求の途中で 亡くなってしまいましたけれども まぁ 彼の 死刑廃止論は 多分 究極的には 彼は こんな問題で 彼のスタンスを 取るんですけれども 「私の中の 他者」って言うんですね その 「私の中の 他者」が「アヴェニール(avenir)、仏語、来るべきもの 将来のもの」 つまり 「私の中には 私が 生きている」ということの中には 全く 来たるべきものとして 未知の 時間に 開かれている そういう構造を 持っている そのことが まぁ 彼にとっての おそらく「自由」ということなんだと 思うんですけども 「死刑」というのは それを 不可能にしてしまう 完全に 閉ざしてしまう ということなんですね 


ですから まぁ 道徳的な理由ではなくて やはり 生のあり方 それの時間性 みたいなものについて 彼は 「他なるものへ 私が 開かれている」ということを 完全に 否定してしまうものとして 「死刑」を 否定する というところを 語っているように すくなくとも 死刑についての 声明文からは 読めるんですね   


ですから さまざまな哲学者が 死刑については 触れてきましたけれども いわゆる本格的な 死刑廃止論を展開した 哲学者は デリダの見るところ なかった ということに なるわけですね 


実は 私は ジャック・デリダという哲学者を 長いこと 読んできて 影響も 受けてきたんですけれども デリダは 晩年近くに 死刑について かなり コミットをし 議論も 行いました まだ 前半しか 翻訳 公開されてないんですが 死刑 というセミナーを 2年間にわたって デリダは やっています そのうちの前半が 邦訳で 出ています 


ここで デリダの やり方ですけども とにかく まずは ソクラテスの死刑 それから イエスの死刑 ここから 話を始めて ずーっと 有名な 死刑の例 そして それについての 様々な論者 当然 哲学者の議論 というものについての 詳細な分析を 加えているわけですね(~1:13:29)



死刑 1 / デリダ,ジャック【著】〈Derrida,Jacques〉/高桑 和巳【訳】 - 白水社(出版年月日 2017/06/27)


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※今日の文字起こしのソースはこちらです


開催日:2022年6月18日、主催:特定非営利活動法人CrimeInfo、協力:アムネスティ・インターナショナル日本
講演:「なぜ私は死刑に反対なのか」、講師:高橋哲哉・東京大学名誉教授

※動画の視聴はコチラです:https://www.youtube.com/watch?v=7R-znm760Pg
※前編へのリンクはこちらです:https://wtti2.muragon.com/entry/205.html
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