一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/7/25(月)から今日まで。(第41週ー前半②)※資料No.113(死刑制度)

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2022/7/26(火)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。
「忙しいけど、私は元気。とりあえず。」


夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(笑、同上で)。
「おかあさん コン🦊ばんは。
きょうの最高気温は、大阪36℃、奈良35℃と猛暑日、従兄弟くんたちのいる東京、新潟も、それぞれ32℃、30℃と真夏日だったようです🌞🍦🍨🍧💕
関西はこのあとも、豪雨や雷の注意報が出ているので☔⚡、とりあえず私はきょうの夜散歩は見合わせて、だら~んとしようかなと思います🐼🎋
それでは、きょうも、『根っこばなし』より『取りあげ婆さ👵🧸💗』⑪をお送りしますね👶🍼🍬
前回の『取りあげ婆さ👵🧸💕』は
今から131年前の濃尾地震でのお産の介助で、警察が飴と鞭で取り調べしてきたのに対し、婆さが「免許や看板など、わしらはあってもなくても、世間の対応が同じだから持たんだけじゃ。ついでに言っておくと、あの河原でのお産で、わしはお代は頂いておらんし、頂く気もない」と(年の功もあって?)なんぼでも言い返した💕👶👩🏻💕
というお話でした。


なお、『取りあげ婆さ👵🧸💕』は、タイトルに魅かれて選ばせて貰った作品なので、物語が予期せぬ展開(?)になるかもしれないことを、あらかじめお詫び申し上げます(笑)🙇


「根っこばなし」より『取りあげ婆さ👵🧸💕』
👶🍼🍬

おどしも すかしも きかんと 見てとると、もったいぶった顔つきで👮‍♂️🚓
「当人も、番頭も 産婆も 正直に、
実家で 生んだと 訴えとるぞ。
👩🏻👨🏻👩‍⚕️
おまえの 話も ほんとうなら、
さては 狐じゃ。狐じゃぞ。🦊
おまえらが 河原の 狐に たぶらかされて、
狐の 赤ん坊を 取りあげたのじゃ。🦊👶
まず、まちがいは あるまいて」
と、いかにも たわけにした 顔つきじゃったと。👮‍♂️🚓


「おまえさま、狐が 人のまねしよと、
わしらの 目でみた人間が、
生ませてくだれと 頼むのに、
そ知らぬ顔が できるかよ」

とな。✨👵👶✨
(つづく)
💕👶💕
婆さが取り上げたのは、間違いなく、人間の赤ん坊です👶そして、たとえ壁は厚くとも、少なくともここにいる私たちみなは、婆さの証人です👧👨👴🐶🐵🦊


などと、熱くなった後は、お互い、シャワー浴びて、気分サッパリさせて、アイス食べて寝ましょう😉🍨✨
「僕も早く大人になって、アイスクリームをいっぱい食べたいでちゅ~?👶🍦🍨🍧💕」
それでは、明日は「最終回」のようですが、お楽しみに(?)おやすみなさい🍼🍬😴💤」

With "Ryoryo"(ウイズリョーリョー)
そのあとは、『哲学者 高橋哲哉さんによるオンライン講演会「なぜ私は死刑に反対なのか」』の文字起こしをしました(前編)↓

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開催日:2022年6月18日、主催:特定非営利活動法人CrimeInfo、協力:アムネスティ・インターナショナル日本
講演:「なぜ私は死刑に反対なのか」、講師:高橋哲哉・東京大学名誉教授

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※講演の部分起こし
(0:3:00~)
みなさんの中には きょうはおそらく 反対の人が 多いのかな という気がしていますけれども 賛成の方も いらっしゃるでしょうし どちらとも決めがたい けれども気になっている という方も いらっしゃるでしょうね 私の話は 賛成の方 反対の方 或いは 迷っておられる方 それぞれのみなさんの 参考になるかどうかは わかりません 死刑反対派の市民の 意見の一つのサンプル として お考え頂ければ 幸いです

(0:37:05~)
「加害者の罪を 許す権利があるのは 被害者のみであって たとえ家族であっても 第三者が 被害者の頭ごしに 加害者を許す権利はない」という議論があるんですけれども まぁちょっと これを 見て頂きたいと 思います 
 
(0:37:40~)
私がいつも 念頭に置いている エピソード これは『カラマーゾフの兄弟』で イワンが アリョーシャに 語った話 なんですけれども 詳細は 省略しますね みなさん ご存じの方も いらっしゃると 思うんで ロシアの田舎の 「ある将軍」 って言ってますけれども 大地主ですかね その 将軍が 怒りに任せて 無辜の子どもを 母親の見ている前で 犬に噛み殺させた そういうことが あったんですね これについて イワンが 言っていることです 


「いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか! 赦したけりゃ、自分の分だけ赦すがいい。母親としての測り知れぬ苦しみの分だけ、迫害者を赦してやるがいいんだ。しかし、食い殺された子供の苦しみを赦してやる権利なぞありゃしないし、たとえ当の子供がそれを赦してやったにせよ、母親が迫害者を赦すなんて真似はできやしないんだよ!」
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫


こう言うわけです ポイントに なっているのは あくまでも 加害と被害の関係を できるだけ厳密に考える ということだと 思うんですね そうすれば 目の前で 愛する息子を 惨殺された母親の苦しみ これは大変 深いものだとしても 母親が 子どもに代わって 加害者を許す権利はない というわけです


同じような思想は 例えば この文なんですけども これは 1965年当時 西ドイツの ナチス犯罪者の 強殺罪の 時効を認めるかどうか 大論争になったんですけれども その時に このウラジーミル・ジャンケレヴィッチ 彼は フランスの哲学者で 日本で 比較的に 知られている人ですが この人が書いた論考に こういうふうにあるんですね 


「生き残った者たちは、犠牲者に代わって許す権利をどうして持っているのだろうか。生還者の名において、犠牲者たちの親や家族の名において、持っているのだろうか。否、野獣たちが面白がって拷問した幼い子どもたちのために許す権利はわれわれにはない。幼い子どもたち自身が許すべきであろう。」
(ジャンケレヴィッチ「われわれは許しを乞う言葉を聞いたか?」吉田はるみ訳、『現代思想』2000年11月号)


つまりジャンケレヴィッチは 第三者には ホロコーストの犠牲者に代わって 許す権利はない という思想を突き詰めて 自分たち サバイバーにも その権利はない と言うわけなんですね 
この考えを 裏返せば 「遺族が 報復する権利を持つ というのは 自分自身の被害についてであって 犠牲者の被害についてではない」 というふうになります


(0:36:00~)
(それらの 許しについての 文献を通して)私は こういうふうに 考えるようになりました 遺族の要求に答えて 犯人を殺すというのは 報復とは言えない 新たな殺人に なってしまうんじゃないか 法権力が 遺族感情を 利用して 死刑を行う というのは 遺族に代わって 新たな殺人を犯す ということになってしまうんではないか ということです そして もし 私が 遺族感情を理由に 死刑制度に賛成するならば 私はこの新たな殺人行為の まぁ 共犯者に なってしまうんではないか それが私の懸念 と言いますか 恐れ ですね 恐れです


(0:48:58~)
勿論 家族を殺された遺族も そのことについて 恐るべきダメージを 被るわけですから その被害を 過小評価することは できません そうすべきではない というふうに思います よく「死刑廃止論は 加害者の人権を語るけれども 被害者遺族を軽視してきたんじゃないか」と そういう批判があります 


そもそも 日本の死刑制度が 被害者遺族の境遇 或いは 意見を 疎かにしてきた 被害者参加制度というのが 2008年に 始まりまして 遺族が 刑事裁判にも 参加できるようになりました 被害者遺族を 様々な面で 支援する そういう制度を 充実させていく必要があると 思います


ただ そのことと 遺族の報復感情を根拠として 死刑を肯定する ということとは 別の問題だと 思うんですね 私の論点ですけども 個人主義を原則とする 現在の司法制度で  遺族の応報感情で 死刑を正当化することは できないのではないかということになります


(0:10:25~)
或いは 2000年に 採択された EU(欧州連合)の基本権憲章 というのが あります 第一章 ディグ二ティー(尊厳)、第二条(生命の権利)で 早速
1.すべての人は、生命に関する権利を有する
2.何人も、死刑を課せられ、執行されてはならない

そういうふうに 定められている 要するに 人権の中でも 最も基本的な人権 それがなければ 他の人権が意味をなさなくなるような 根底的な人権として 生命の権利 生命権 というものを 立てて それを奪うことは 人間の尊厳を 著しく毀損するということになる こういう論理 なんですよね 


国連人権理事会は 過去三回 日本政府に 死刑廃止 そして 執行停止の勧告を 出していますね EU(欧州連合)も 日本で死刑執行があるたびに 厳しい批判を(政府は)受けています 日本政府は これらに対して まぁ「世論が 死刑制度を 支持しているんだ」とこういう理由で 拒否しているわけですが それに対しては「世論の多数派が 死刑支持であっても 政治のリーダーシップで 廃止した国が多いんだ というか むしろ殆ど そうだ」というふうに 反論されるんですね 


実際問題としては 日本の歴代の政権で 死刑廃止を目指した政権は ないですよね 政府が 世論の支持を 持ち出すときには おそらくこれは 口実に 過ぎない いよいよ 答えに 窮してきますと 例の 森山 眞弓 当時の法務大臣の発言 というのが よく知られています


まぁ「死刑は日本の文化だ」という趣旨だと 思うんですが 「死んでお詫びをする」という表現に 「我が国独特の、罪悪に関する感覚が現れているのではないか」 こんなふうに こういう発言が 出てきてしまうわけです こんなことを言うと 今でも 腹切りを やっているんですか? と思われても 仕方がない ということが あると思うんですが そもそも 「死んでお詫びをする」というのは 個人の 私的な 行為 全く私的な行為ですよね まぁ自殺であって 公権力が殺す死刑とは違う わけですよね 
(つづく)
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※今日の文字起こしのソースはこちらです

開催日:2022年6月18日

講演:「なぜ私は死刑に反対なのか」、講師:高橋哲哉・東京大学名誉教授
主催:特定非営利活動法人CrimeInfo、協力:アムネスティ・インターナショナル日本
※動画の視聴はコチラです:https://www.youtube.com/watch?v=7R-znm760Pg
(つづく)

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