一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/3/7(月曜日)から今日まで。(第21週ー前半②)




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2022年3月9日(水)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。


「昨日はご苦労様。昨夜は☐☐の準備したとり鍋退学届けを清書して、買ってきたレターパックに入れました。明日の木曜日は仕事ないのでのんびりします。」(※☐☐:息子氏の名前)



夜は、菟田野のお義母さん(84)に、ラブレター書き(笑、同上で)。


「おかあさん こんばんは😊きょうは、梅の写真の中の、「甲州小梅」のお花をご紹介します🤤なんとなくのイメージのする名前だけれども、白梅さんだったんですね🌼梅干しに使われる岩下さんの「甲州小梅」より、おかあさんが漬けられた生姜や梅干しの方にすっかりなじみ、美味しいと感じる私たちですが、小梅と言えば、のど飴の 小梅ちゃんも 有名で🍬あのパッケージの古風な美人さんは(林静一さんという方が描かれているそうです)は、塗り絵もあるそうです🥰着物がお好きなおかあさん、もし、塗り絵にもご興味があれば、ご一報くださいね😉それでは次回、一日置いて金曜日の梅見をお楽しみに(笑)😋おやすみなさい😴💤✨」


それが済むと、YouTubeライブ配信1つと、事前申込不要のYouTube配信1つに参加しました。


一つ目は、

芝大門人権講座<3月>
「ミャンマー情勢は今〜歴史的背景と現在、そして人々…〜」
 
講師:長田紀之・日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員


※資料⑨に、講演と 質疑応答の全文起こしがあります。



二つ目は、

第37回 難民問題に関する議員懇談会 総会 ―
(ウクライナ、ミャンマー情勢について、ほか 


※資料⑩に「難民問題に関する議員懇談会・役員」の名簿があります。


短い限られた時間内での、バタバタ懇談に、ちょっと見えなくもなかったけれども、せやけどウチは、お忙しい中、日本にもこんだけ、ウクライナの難民の方々の、受け入れのために、リーダーシップ発揮できはる国会議員さんがいてはることに、誇りを感じたねん💧




甲州小梅(荒山(こうぜん)公園 - 堺市と、小梅(かあ)ちゃんですの🤭」「出たニャ!梅干しBBAちゃんめぇー🙀






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資料のイメージ
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※ウェビナー(Webinar)とは、ご存知のようにコロナ禍、私たちの日常に、新たに加わった "ウェブ(Web)" 開催の "セミナー(Seminar)" のことです。
※画像が大きくて申し訳ありません🙇‍♀️


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※⑨


  令和4年3月9日(水)

  芝大門人権講座<3月>「ミャンマー情勢は今 〜歴史的背景と現在、そして人々…〜」

https://www.jinken-library.jp/news/detail/96852/

 講師:長田紀之・日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員



※講演の全文起こし


長田紀之・日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員


長いスパンで 背景を説明しつつ 現状がどうなっているのかを お話ししたいと思います

 

まず 地理的背景について ミャンマーは 東南アジアの 西北 北西の端に位置する 五か国と、国境 1500キロにわたる 広大な規模で 中国・インドと、 接しています 


面積は 日本の 半分ぐらい 中国を中心とする 東アジア インドを中心とする 南アジアとの 間に位置しています


モンスーン季節風の影響を よく受け 季節ごとに 風向きが変わります 


5月から 10月は 南西 海の方から 陸に向かって 吹きます 湿気を おとすので したがって 雨季になる 


11月から 4月までの 春に当たる時期は 大陸から インド洋に 向かって 逆に 吹いてくるので 乾季 とくに 後半 3月 4月は 非常に暑くて 40度近くなる 日差しに殺される というような 暑いところです 


唯一 乾季の始まりの 10月から2月 比較的涼しくて 20度を 下回ることもある 三つの季節感を もって 一年を 現地の人は とらえています




歴史的に ミャンマーを 位置づけてきたのは エーヤワディー川です  川筋に 攻防してきた国によって 文化が 培われてきた 


この エーヤワディー川の 中心部が 今のミャンマーの もとになっているわけですが 周辺部は 平野が 続くんですが 取り囲むようにして 山地帯があります 


の世界と 河川流域の 平野の世界と 沿岸部から広がっている の世界 が 相互作用しながら 今のミャンマーの 相互社会が できあがってきた そういうイメージを 持って頂ければと 思います



まったく違う 歴史的経緯を 持っていて 中流域に 多くの都がおかれたのが この 平原です 


乾燥平原は 茶けた色に 地図で なっています 


非常に モンスーンがもたらす 雨によって 緑 


ここは 例外的に 雨が少ないところです  

川で しきられてしまって ホットスポット的に できてしまうわけですね そこに 灌漑で 稲作地帯ができて 古くから 文化の中心が できてきた

 

それに対して 沖積平野は 近年 ここ200年 急速に 開発されてきたところで デルタは 雨季は 上流からの 水で 水浸しになる 一面が 沈んでしまうようなところです 


逆に 乾季は 地面が 出てくる 人を殺すような 日差しで 粘土が カチカチに 固まってしまう 人力では 耕せないような 土になって しまう 感染症も 蔓延しやすい 人が 住むのは 適さない場所です


それでも 世界有数の 米作地帯に なっていく過程で いまでは たくさんの 人が住んでいて ヤンゴンは コメを 輸出する基地として 経済の 中心地に 位置づけています



地面に足をつけて 立った目線で イメージを つくっていただきたい というところで わたしが 歩いて とった 写真を はりつけてみました 


ここは 日本と 似ているところがあって ノスタルジーを 感じる 


うってかわって 中央平原の 写真です 一見して 乾いている というのが 見て取れると 思います 乾いているんだけれども 東南アジアの三大遺跡に 数えられる

(※カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥールとミャンマーのバガン)


こんどは デルタです 水面が 一面に 続いている まっ平らなところ その中に ヤンゴンという 一大都市が あります 麺料理です 


パゴダ・モニュメント これも ヤンゴンの 郊外に あります 今は 街中 といっていいですかね  


さらにには より 東南アジア的な 土地が 広がっています


こういうところに 非常に 多様な 生活を異にする 人々が ミャンマーと いう土地に うえに 住んでいます 


135の 民族が 住んでいることに なっています 民族の 定義は たいへん 難しいことです 


人々の 主観に もとずくことで 客観的 規定は 意味がない が 今は 民族の定義の 主流に なっていますけれども ミャンマー人であれば 135の どれかに 所属する そういう 国家に認められた 民族の数が 135ある じっさい 135以上 あると 考えた方がいいと 思います


主な指標は 言語なんですけども 主に 上座仏教 あとは インド イスラム 


言語は マジョリティーの人たちが 話す言語を バマー(Bama)語、ビルマ語と いわれます 


ざっくりと分類して 地図化したのが 右側です 濃い まっ黄色 ここが バマー、公用語 

それ以外に 濃い山吹色 このなかに チン カチン ヤカイン 等 いろいろな言語が 入っています 


色が全く違う言語は 広い枠組みでもってしても 言語的に 遠い間柄であることを しめしています 


そういう言葉が 隣り合っています チンというのは 言語学者が 分類して ひとつに ぬられているんですけれども チンのなかに 言語学上 違う言語が 30ぐらいあると 言われています 


言語学者の 言うところの 「山越えて 隣の盆地に 行くと 違う言語が 話されている」 「似た言語が ここらへんは あるんだけれど モザイク状に 分んぷしている」 そういうところと いえます 


山岳部は ラオス インド北東部と 連続している このあたりは 世界で最も 言語の博物館 多様性が 高いところと いえるかなと おもいます 


そういうところに ミャンマーという国ができて 国家づくりが できてきた


ここから 今の クーデターに アプローチ していきたいと 思います 


エーヤワディー川の 中流域は 19世紀まで いろんな王朝が たっていた イギリスの 植民地期 1948年 前半まで 続きます 日本が 東南アジアに 進出 したときに ミャンマーも 占領下に いれた 戦争に 負けて 出て行ったあと イギリスが また 入ってきた 


1948年 独立国として スタートして 10数年は 政治的混乱が続き 軍が ちからで 統一を まもる 政権を 1962年まで 握ることになります 


軍を倒立したのが アウンサンに なります カリスマ性が 高い 伝説的な 人物です なぜ カリスマ的 かというと  独立直前に 暗殺されてしまって この世に いなかったからです 


いろんな反乱 共産党の 反乱が 続発した ときに 軍が でてきた ネーウィンという人です 出てきた ネーウィンが 独裁して ビルマ特有の ビルマ主義社会に 基づいて 行っていくんだと 


でも 経済が 破綻していって 政治的自由を 国民は 抑圧されていって 経済的にも 貧困に 陥り 1988年に 冷戦が終わる タイミングと かさなったんですけれども 民主化運動で ネーウィンは 退陣することになった 


その間 ひとびとのあいだで リンチが 行われたことが に 口実を あたえるかたちで 1988年 民主化運動を 軍が 暴力的に弾圧 かつ なだめるために 1990年 選挙を行う 


じっさい 行われるが  公正 平等を 無視して 選挙を ないがしろにしたことで  アメリカ  欧米諸国から 経済制裁を うける これが 2021年まで 続く 軍政です


すい星のごとく 誕生したのが アウンサン・スーチーというひとでした 学者として 生活していたのが おみこしの様に 担がれて 政治的に 出てきた 


その アウンサン・スーチーのもとに 90年選挙で 大勝するのですが 軍政は 弾圧を 続けることになった 支持を受けずに 移行ということですね 独裁色を強めた タンシュエという人の独裁だったと 1990年代から 2000年代は 言えます 


90年選挙を 反故にした アウンサン・スーチーを 抑圧した というので 欧米から 制裁を かけられたので 同時期の ベトナム 比べると ミャンマーの 経済発展は あまり うまくいかなかった 


そういうなかで 中国への 依存を 強めていってしまいます そこで 軍政の 自己改革を させていくことになりました 


2000年代 自作自演の 民主化を 打ち出していく 2011年に 「民政移管」 が おこなわれて ただ これが 鍵括弧付き なのは 軍政は 自らの ロードマックに したがって 自らに 都合のいい 憲法を 作ります 


国民選挙も 自由民主化とは ほどとおい 2019年の 総選挙に 勝ったのが だれかというと 連邦団結発展党 テインセイン という人でした 文民ですが 軍服を 脱いで 文民に なって 党首に すわって 「民政移管」が おこなわれた というのが 内実 だったわけです 


アウンサン・スーチーは 軍による いやがらせで 選挙に 参加できない というわけで民衆は 選挙を ボイコットしたわけです かぎられたなか 軍事政権下で おこなわれた 公正でも 平等でも ない 選挙であった こういう経緯で 軍政が かたちをかえて つづいたものであると 国民も 欧米諸国も 見ていた 


ところが アウンサン・スーチーと 軍政が 手打ちをして ルールブックの上で 2008年憲法のうえで みとめてなかったんですけれども みとめるなら フェアに たたかわせたてあげるよ という 協定が 結ばれた 結果 アウンサン・スーチーが はじめて フォーマルな 政治の舞台に 2012年 国会議員となって 登場することに至った


全次席を 改選することになり アウンサン・スーチー率いる NLD(国民民主連盟)

 が 政権を取る かたちになった 長らく 孤立的 立場 にあった ミャンマーが こうして 2010年代 国際社会に 進出していく こととなりました が 軍が 形をかえた だけであった ことは ふまえておかなければいけない 




2008年憲法は 政府と 軍が 並び立つ 構成のものです 国家運営は 軍が 発言権を 持つ 外側に ふつうの政治組織 立法府 行政府が つくられた 司法府は 独立性が 非常に すくないんですけれども 行政府の 大統領 ・・・ ・・・の 3人のうちひとりは 軍が 選べるようになっている 現役の軍人からも 任命 できるようになっている 民主的とは いえない 体制が 続いている 軍政は おわったけれども ポスト軍政の 時期と いえるかなと おもいます とはいえ アウンサン・スーチーは受け入れて いろいろ 苦労はしたと 言えると思います


2015年の総選挙は 画期的なことだったと ミャンマーの 総選挙歴史のなかでは 言えると思います 

軍政が 1990年から 四半世紀ぶりに 自由で 公正な 選挙が 行われたと 結果を うけいれることができなくて 問題が起こっていくわけですが 2015年選挙は 反故にされることなく 政権交代に 反映された意味で 1960年の選挙以来 半世紀ぶりだったと いえるかと 思います 100年に一度しか ふつうの選挙が ミャンマーでは 実施されてこなかった ということが 言えると思います


アウンサン・スーチーは 実質的には 最高の 権力者としては その 政府の外側に 軍が いるですから 権力の 分有が されていた 


憲法改正も ミャンマーは 全議員の 4ぶんの3を こえる 必要がある 4ぶんの1を 軍人議員が しめているので 割れないかぎり 改正はできない 一枚岩的な 軍の 組織が 拒否権を にぎっているのとおなじ 軍の了解を えなければ 制度上 憲法改正できないことが 明かになって 青地写真を 描いていたようには 軍との 関係が うまくいかない 対立関係が ふかまっていきます



2020年11月 三度目の総選挙で NLD(国民民主連盟)が  ふたたび 圧勝して 軍は そういう タイミングで 不正だったんだと 主張を 選挙直後から つよめていって そのクライマックスで クーデターを 実行した 



あくまでも 不法な行動を とったのは NLD(国民民主連盟)の側で 軍は 国家の非常事態にたいして 合法的に ふるまったというのが 軍の言い分です そもそも 軍の説明には おおくのもんだいが あるので わたしも これは クーデターだと みなしています


粛々と コロナ対策 姿勢を 見せた 根拠は 2020年選挙が うまく おこなわれなかった 最終的には 総選挙をやりなおして 政権を もどす あくまでも 暫定的だと いうことで 当面の 政権を 確保しようとした 軍の 思惑の中にあったタイムラインを 明確に 述べることなく あくまでも 暫定的と いうかたちで のこしてきました 


影響力の濃い 軍政の 青写真は 国民から はんたいのこえが 非常に多く くずれさっていきます 若者の Z世代 ネット デジタル技術を 駆使した 連帯の 動きと 世界的な 若者達の動きと 非常に 連動したかたちで 反対運動が 起きていきます 


それまでの ミャンマーの民主化運動は いえのなかに いたんですけれども だんだん 路上に 寝るような かたちで 組織されるようになって いきます 拡散させることで 外に伝えようとする 奇抜なファッション ウィットにとんだ 一種のお祭り的な 運動でした 3本指を たてる タイの民主化運動から ならいうけたものですけれども これに対して 軍は 暴力的な手段で 弾圧をしていきます


あっというまに 2月の末ぐらいから 死者の数が 一回に 数十人から 120人くらいになった 人々は 民主的な 行動をしたんですが 軍は そういうかたちで 軍の弾圧が 加えられていきます

  

コロナ禍 医療従事者の需要が 高まっていた そのなかで 医療従事者は 軍に くみしないと ストライキ 運動 諸刃の刃 行政 経済の 流れを とめていく そういう 流れが 抗議運動が 展開されました 


そういう中で 若者や ある程度 年を取った人も 全国民による 抗議運動が 展開されて 非常に 水平的 多元的に 抗議運動が 展開していった ひとりの 指導者のもとでなく 草の根で いろいろな 運動が つながって うねりのなかで おおくのひとたちが 賛同する 象徴的な 灯台のような やくわりとして 「並行政府」が たちあがっていきます




さいしょは 2がつに 2020年当選議員たちが あつまって 2月 CRPH(連邦議会代表委員会) が つくられます ほとんど NLD(国民民主連盟)が 中心なんですけども ちょっと すそののひろい 4月 NUG(国民統一政府) が 作られていきます 



国民の支持を とりつける 実質的活動は オンラインに かぎられている 実質的には 軍が もっているんだけれども CRPH(連邦議会代表委員会) と NUG(国民統一政府)は  軍の正当性を 否定しつつ 別の政府組織を つくりあげようと していたんですけれども なかなか むずかしい ずっと オンラインでの 呼びかけが 中心になっていた それを いかに オンラインで まとめあげるかが CRPH(連邦議会代表委員会) と NUG(国民統一政府)の 課題になっていた 




これまで 内戦の 舞台に なってこなかったような マジョリティーの多くが 住んでいる 平野部 にも 武装組織が できてきて 5月には CRPH(連邦議会代表委員会) と NUG(国民統一政府) の傘のもとで PDF(人民防衛隊) が よびかけて とりこもうとした 動きがあります そして 9月 軍政に対して正式に 防衛戦開始を 宣言していきます こうして 軍の空爆からの 避難民の方の数が 2020年末 37万人から 二倍の 82万人に ふくれあがる かたちになっています


マジョリティーの問題は ここまでで ここからは ミャンマーの少数民族の問題について 話したいと思います 


主導したのは マジョリティー バマー語 ビルマ語を はなすひとたち だったわけです 中流域の 諸王朝の 子孫なのだ という自負が 核にあります もうひとつは 上座仏教  であるという アイデンティティー この二つが じゅうような 核となって バマー・ナショナリズムは 高揚していきます わたしたちは なになにではないと 


もうひとつ じゅうようなのは 植民地期 強まっていくわけですが ひとつは 植民地支配した イギリス人 それと並んで インド人 中国系の人たちです 急速に 開発されて行って 大量に 移民が 入ってくる 新しく入ってきた 移民に対する 敵意が 強く 外来ではない われわれは 土着の むかしからいる 民族である 人間なんだと いう 主張ですね ただ 周辺の 山地に いたひとたち に対しては そういう つよい 主張は なかった


たくさんの 少数民族が いる 現実の問題として うかびあがってきたのは 1948年独立交渉で 言葉の通じない いろんな人たちが いたと 認識されて 会談が 持たれたりして 新しい憲法が つくられて 独立連邦制 が うたわれて バマー以外の 民族も 自立性を みとめている 連帯して 独立することが うたわれた 


しかし 実体はあまり ともなっていたなかった 数十年にわたって 国家の指導層に 課されていくわけですが 国民形成における 2重の対立軸が あった   


そのひとつが  土着 バーサス 外来 

ふたつめが バマー バーサス 土着少数民族 


異議申し立てが 相次いで 仏教を 手にとって 対立する 独立直後から 内戦が 深まっていく 武装した 少数民族が 多くなり 国家の 軍事力を 担う勢力が 重要化していった 武装した 少数民族の増加は 軍が 内戦を終らせる 目標でもあり 軍に 政権を握らせる 口実でもあった そういう状況が ミャンマーでは 続いていきました


それと まったく 異なる形で ロヒンギャ問題が ありました 

ミャンマーの 1947憲法の 定義には  まず 土着の民族であることとして つくられた ですが 48年は 帰化する 道も 残されていた あるていど リベラルな 提言が おきていた しかし 土着民族以外が 国民になる 定義が 限られて いくことになります 独立後に 入ってきたひとは 国民になれないという 1982年 「国籍法」の 規定です  これが誰の対象にあたるかと いうと ロヒンギャです


ラカイン北部 ここにある州の ムスリムが ロヒンギャです となりの ベンガル地方からの 移民であって 不法なんだと まっこうから 対立しています なんども 政府が おいだして 多くの たいりつが おこってきました ミャンマー側に 100まんにんぐらい ムスリム ロヒンギャというひとたちが いたんですが ロヒンギャを かたる 武装勢力 が でてきて 支援する ふつうのひとたち 全体の 70万人が すうかげつで 隣の バングラデシュに 逃げ出す 前からいた人と あわせて 100万人ちかい 難民が バングラデシュにいて とどまっていて バングラデシュ側でも さまざまな もんだいがおきている という 状況です


ひとの あつりょく バングラデシュ南東部の 人口圧力が かかっていた さかのぼって ムスリムが むかしからいたことは たしかなんですけれども ラカイン一体の ムスリムなんだと 主張し それにたいし アラカン・ナショナリズムが 高揚して これはけしからんと 主張をつよめていった 対立的関係が 深まります 「国籍法」と 軍事的圧力とによって 歴史的に バングラデシュ側に 追い出すことが つづけられてきた ということがあるわけです 


いま あたらしい ロヒンギャを 名乗る 武装組織が でてきて 非常に 大きな難民キャンプが バングラデシュ側に できています…


さいごに かんたんにまとめると しょうすうみんぞくと 軍との 紛争は 70年以上 続いていて その避難民の数が 増大し 100万人ちかい ロヒンギャの人たちが いま バングラデシュ側にいるという お話でした。以上です




※質疑応答の全文起こし


>軍事政権に基盤がないとしたら 支持する層は どのようなひとたちでしょうか?


軍 官僚の 多くは 軍を支持していました 今回 軍を みかぎって 民主側の組織に 参加したひとも おおくいると 思いますが 軍に 投票する 有権者がいることも 分かっています 有権者の 3割弱は ある程度 支持してきたと ただ クーデター後は わからない状況かなと 思います 



>..ミャンマーの人たちの日本への期待は?わたしたちにできることは何でしょうか?


国外の 外国の人たちの 協力を もとめています かぎられていることも 承知していると 思います いまの ウクライナのひとたちも そうだと 思いますけど さまざまな 支援先とかが ありますので そういうものをみつけて 金銭的支持と あとは 国内におられる ミャンマー人 在日のミャンマー人の方々に対して 見ているよと メッセージを 伝えるだけでも  応援になると 思います







~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~



※⑩

2022年3月9日(水)


【3/9 第37回 難民問題に関する議員懇談会 総会 】
内容:ウクライナ、ミャンマー情勢について、ほか 
https://youtube.com/user/IWJMovie/featured



2020年5月18日、「難民問題に関する議員懇談会」が国会内で設立

会長:石橋通宏参院議員


【 難民問題に関する議員懇談会・役員体制】


近藤 昭一(衆)(立憲)顧問
津村 啓介(衆)(国民)
中川 正春(衆)(立憲)顧問
石橋 通宏(参)(立憲)会長
徳永 エリ(参)(国民)


有田 芳生(参)(立憲)副会長
泉  健太(衆)(国民)
福島 みずほ(参)(社民)
舟山 康江(参)(無所属)
石垣 のりこ(参)(立憲)幹事


伊藤 孝恵(参)(国民)
打越 さく良(参)(立憲)
高木 錬太郎(衆)(立憲)幹事
高良 鉄美(参)(無所属)
初鹿 明博(衆)(無所属)


屋良 朝博(衆)(国民)
石川 大我(参)(立憲)事務局長




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