一週間刻みの眺め(長め)サイト(笑)

今週、引き出しの中に容れたもの。

2022/6/20(月)から今日まで。(第36週ー後半③)※資料No.91'


**************
2022/6/26(日)
**************


きょうは、プライベート・デーにつき、いつもの形式のブログはお休みです(笑)


きょうは、夜、ペットフード2割引きセールへ行き、4,478歩(3.1㎞)歩きました🐾

With "Ryoryo"(ウイズ リョーリョー)


夜は、福島子ども甲状腺がん訴訟の、原告2さんの意見陳述を、文字起こししました


~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


※0:30:26~0:48:00原告2さん


3月11日 この日は 卒業式で 部活の友だちや 後輩と たくさん 写真を撮り その後 友だちと ビデオ通話を している時に 激しい 地震が きました 


その後 原発事故が 起きたことを 私は 知っていましたが その時は あまり 危機感は ありませんでした


3月16日は 歩いて 学校に行き 高校の 合格発表を 聞いた後 友達と 昇降口の外で長い間 立ち話をして 歩いて 自宅に 戻りましたが その日 放射線量が とても 高かったことを 私は 全く 知りませんでした  


甲状腺がんは 福島県民健康調査で 見つかりました 首に エコーを当てた 医師の顔が 一瞬 曇ったように見えたのは 気のせいだったのか 検査は 念入りでした 母に 「あなただけ 時間がかかったね」 と言われ 「もしかして がんがあるかもね」 冗談めかしながら 会場を 後にしました


精密検査を受けた 病院には 沢山の人が いました このとき 少し 嫌な予感がしました やっぱり 何か おかしい 自分でも 気づいていました 


そして ついに 穿刺吸引細胞診を することになりました この時には 確信がありました 私は 甲状腺がんなんだと 


首に 長い針を刺す 恐怖心と 早く終わってほしいという 気持ちが増す中 3回目で ようやく 細胞を 取ることができました


10日後 検査結果を 知る日が やってきました 病院には また 沢山の人が いました 結果は 甲状腺がんでした 


ただ 医師は 甲状腺がん とは言わずに 遠回しに 手術が必要と 説明し 「手術をしないと 23歳までしか生きられない」と言われた ことが ショックで 今でも 忘れられません


手術の 前日の夜は 全く眠ることが できませんでした 不安で いっぱいで 泣きたくても 涙が 出ませんでした でも これで 治るなら と思い 手術を 受けました 


手術の 前より 手術の 後が 大変でした 目を覚ますと だるさがあり 発熱もありました 麻酔が合わず 夜中に 吐いたり 気持が悪く 今になっても 鮮明に 思い出せるほど 苦しい経験でした 今も時折 夢で 手術や 入院 治療を 何度も 見ることが あります 手術の後は 声が枯れ 三カ月くらいは 声が出にくく なってしまいました 


家族の 反対もあり 大学は 第一志望の 東京の大学ではなく 近県の大学に 入学しました でも その大学も 長くは 通えませんでした 甲状腺がんが 再発したためです


大学へ入った後 初めて 定期健診で 再発が見つかって 大学を やめざるを えませんでした 治っていなかったんだ しかも 肺にも 転移しているんだ とても やりきれない 気持ちでした 


治らなかったんだ 悔しい この気持ちを どこにぶつけていいか わかりませんでした 今度こそ あまり 長くは 生きられないかもしれない そう 思いつめました 一回目で 手術の つらさが 分っていたので また 同じ苦しみを 味わうのかと 憂鬱になりました 


手術は 予定した時間より 長引き リンパ節への転移が 分ったので 傷も 大きくなりました 一回目と同様 麻酔が合わず 夜中に吐き 痰を 吸引するのが 凄く苦しかった
二回目の 手術をしてから 鎖骨付近の 感覚がなくなり 今でも 触ると 違和感が残ったままです 


手術痕について 自殺未遂でもしたのかと 心無い言葉を 言われたことがあります 自分でも 思ってもみなかったことを 言われて とても ショックを 受けました 手術痕は 一生 消えません それからは 常に 傷が隠れる服を 選ぶようになりました


手術の後 肺転移の 病巣を 治療するため アイソトープ治療も 受けることになりました 高濃度の 放射性ヨウ素の入った カプセルを飲んで がん細胞を 内部被ばくさせる治療です 


1回目と 2回目は 外来で アイソトープ治療を 行いました 


この治療は 放射性ヨウ素が 体内に入るため 周りの人を 被ばくさせてしまいます 病院で 投薬後 そこで 隔離生活をしましたが 家族を 被ばくさせてしまうのではないかと 不安でした 二回も ヨウ素を 飲みましたが がんは 消えませんでした 


三回目は もっと 大量の ヨウ素を 服用するため 入院することになりました 病室は 長い 白い 廊下を通り 何回も 扉をくぐらないと 行けないところでした 至る所に 黄色と赤の 放射線マークが 貼ってあり ここは 病院だけど 危険区域なんだと 感じました


病室には 指定されたもの 指定された数しか 持ち込めません 汚染するものが 増えるからです 


病室に 看護師は 入ってきません 医師が 一日一回 検診に 入ってくるだけです その医師も 被ばくを覚悟で 検診してくれると 思うと とても 申し訳ない気持ちになりました 私のせいで 誰かを 犠牲に できないと 感じました 


薬をもって 医師が二、三人 病室に 来ました 薬は 円柱型の プラスチックケースのような 入れ物に 入っていました 


薬を飲むのは 時間との 勝負です 医師は ピンセットで 白っぽい カプセルの薬を 取りだし 空の 紙コップに入れ 私に 手渡します 医師は 即座に 病室を 出ていき 鉛の扉を 閉めると スピーカーを通して 扉越しに 飲む合図を 出します 


私は 薬を 手に持っていた水と いっしょに 一気に 飲み込みました 飲んだ後は 扉越しに 口の中を 確認され 放射線を 計る機械を お腹付近に かざされて お腹に入ったことを 確認すると ベッドに 横になるように 支持されます すると スピーカー越しに 医師から 15分おきに 体の向きを 変えるように 支持する声が 聞こえてきました 


食事は テレビモニターを 通じて 見られ 残さずに食べきれているかを 確認し 汚染するものが 増えないように 食べられる分しか 入れて貰えません 


その夜中 お風呂場では なんともなかったのに 急に 吐き気が 襲ってきました 凄く 気持ち悪い なかなか 治らず 焦って ナースコールを 押しましたが 看護師は 来てくれません ここで 吐いては いけないと思い 必死で トイレに 向いました 


吐いたことを ナースコールで 伝えても 吐き気止めが 処方されるだけでした 時計は 夜中の 二時すぎを回り よく眠れませんでした


次の日から 食欲が 完全に なくなり 食事ではなく 薬だけ 病室に入れてもらうことが 多かったです 二日目も 一、二回 吐いてしまいました 吐いた時に 眼圧が かかり 片方の目の 血管が切れ 目が 真っ赤になってしまいました 扉越しに 看護師が 目の状態を 確認し 目薬を 処方してもらいました 


病室から 出られるまでの間は 気分が悪く ただただ時間が過ぎるのを 待っていました 
病室には クーラーのような 四角い形をした 放射能測定装置が 壁の 天井近くに ありました その装置の 表面の 右下には 数値を示す 表示窓が あり 私が 近づくと 凄く 数値が 上がり 離れるとまた 数値が 下がりました


こんなふうに 三日間をすごし ついに 病室から 出られる日が 来ました パジャマなど 身に着けていたものは すべて 鉛のゴミ箱に 捨て ロッカーに しまっていた 服に着替えて 鉛の扉を開け 看護師と一緒に 長い廊下と 幾つもの扉を通って 外に出ました


治療後は 唾液が出にくいという 症状に 悩まされ 水分の少ない食べ物は 飲み込みづらくなり 味覚が 変わってしまいました この入院は 私にとって あまりにも 過酷な治療でした 二度と 受けたくありません 


そんな つらい思いをしたのに 治療はうまく いきませんでした 治療効果が 出なかったことが とてもつらく その時間が 無駄になってしまったとも 感じました 以前は 治るために 治療を 頑張ろうと 思っていましたが 今は 少しでも 病気が 進行しなければ いいな と 思うようになりました


病気になってから 将来の夢よりも 治療を 最優先してきました 治療で 大学も 将来の仕事に つなげようとしていた勉強も 楽しみにしていた コンサートも 行けなくなり  全部 諦めてしまいました 


でも 本当は 大学を 辞めたくなかった 卒業したかった 大学を 卒業して 自分の得意な分野で 就職して 働いてみたかった 新卒で 就活を してみたかった 友だちと「就活どうだった?」とか たわいもない 会話をしたりして 大学生活を 送ってみたかった 今では それは 叶わぬ夢 となってしまいましたが どうしても 諦めきれません 


一緒に 中学や 高校を 卒業した友達は もう 大学を卒業し 就職をして 安定した生活を 送っています そんな友達を どうしても 羨望のまなざしで 見てしまう 友達を 妬んだりは したくないのに そういう感情が 生まれてしまうのが つらい 病院に行っても 同じ年代の 医大生と すれ違うのが つらい 同じ年代なのに 私も 大学生だったはずなのにと 思ってしまう 


通院のたび 治療マーカーの 数値が 上がっていないといいなと 思いながら 病院に行きます でも 最近は 毎回 数値が上がっているので 何が 悪かったのか なぜ 上がったのかと やるせない気持ちに なります 


体調も どんどん 悪くなってきて 肩こり 手足が痺れやすい 腰痛 があり すぐ 疲れてしまいます 薬が多いせいか 動悸や 一瞬 息が詰まったような 感覚に 襲われることもあります また 手術をした 首の周りあたりが つりやすくなり つると 痛みが治まるまで じっと 耐えなくてはなりません 


自分の病気のせいで 家族にどれだけ 心配や 迷惑をかけてきたかと思うと とても 申し訳ない 気持ちです 


もう 自分のせいで 家族に 悲しい思いを させたくありません 


もとの身体に戻りたい そう どんなに願っても もう 戻ることはできません
 
この裁判を通じて 甲状腺がん患者に対する 補償が 実現することを願います


(2022年5月26日、東京地裁)



2:20~ 山下俊一・福島県立医科大学副学長のこと
※ぜひ、講演動画をご視聴ください。https://www.youtube.com/watch?v=HAGFzxfl2iw  

 手術の様子が入っているので、アクセスすると警告表示が現れる場合がありますが、そのままクリックしてください。
※前編はこちらです。https://wtti2.muragon.com/entry/167.html



×

非ログインユーザーとして返信する